贈与交換と家族

贈与交換と家族

 

 

1.           狩猟採集社会における家族

人類の初期の産業構造(=経済活動)は狩猟採集社会でした。そこでは獲物の動物や果物や根菜などは自然から人間に贈与されました。この贈与関係を維持するために、人間は自らをスピリチュアルなものとし、自然もまたスピリチュアルなものと見ました。そしてスピリチュアルなものとして人間と自然が交歓したのです。

それはどういうことかというと、動物や植物、昆虫、太陽や月、星、人間などの大宇宙に存在するものを、その外形や存在形態の違いにかかわらず、すべて人間どうしのように会話を交わすことができ、交際できるものとみなしていたということです。

たとえばアマゾン川源流近くに住むトゥクナ族の狩人モンマネキの神話では、主人公がカエルや鳥やミミズやインコと次々と結婚しては別れるという話が続きます。別れる理由は、主人公が配偶者に満足しているのに、主人公の母親が嫁に意地悪をして追い出すというだけですから、人間世界の姑による嫁いじめの話とさほど変わる構図ではありません(クロード・レヴィ・ストロース神話論理Ⅲ 食卓作法の起源』より)。

狩と獲物の関係で言うと、北海道のアイヌをはじめとする狩猟採集民の世界では、獲物を狩るのではなく、その動物の身体の中に閉じ込められていたスピリチュアルなものを解放してあげるのだという考えがあります。そのスピリチュアルなものを歓待することによって、動物はその身体を土産として人間たちに与え、仲間の元に喜んで帰っていくという考えです。そして仲間の元で人間たちから受けた歓待の話をして、今度は仲間を引き連れて人間たちの歓待を受けにやって来るというものです。

ただし人間が人間という存在のままで動物たちを歓待することはできません。人間もまた自分の身体を離れ、スピリチュアルな存在となって動物たちを歓待するのです。人間自身がスピリチュアルな存在となって動物や植物など自然の様々なスピリチュアリティを歓待することによって、スピリチュアリティとしての自然は、歓待に対する返礼として、自分の身体を人間に贈与するのです。この贈与交換によって人間世界に富がもたらされます。自然は人間に贈与を与えるものですので、狩猟採集社会において、自然を傷つける行為はタブーとされたのです。

 

 

狩猟採集社会において家族は、定住する必要はありませんので、家族構成員も固定される必要はありませんでした。ですからヘアー・インディアンのように生物学的な母親が子どもを育てるのではなく、「子どもは育てられる人が楽しんで育てる」ものでした。またアンダマン諸島人のように、たがいの家の子どもを交換することが、礼儀であり、友愛の印だったのです。

 

2.           農耕牧畜社会における家族

農耕牧畜社会においては、野生の動物を飼育し、穀物を栽培しなければなりません。そこでは自然は人間に敵対するものとなります。野生の動物を飼育し、穀物を栽培することは、自然界の秩序とは異なる人間界の秩序をつくり出すということでした。

つまり人間の世界というミクロコスモス(小宇宙)と自然界というマクロコスモス(大宇宙)が分離するのです。しかし飼育された動物も栽培される穀物も、もともとはマクロコスモスに所属するスピリチュアルなものでした。ここで宗教形態は逆説的なものになります。

動物を家畜化し、穀物種を栽培種化することによって、自然のスピリチュアリティではなくて、スピリチュアリティを超えた神という概念をつくりだし、その神を殺害する、あるいはその神のために動物や人間を犠牲に捧げるというドラマティックな宗教形態になります。大宇宙の一部を神として崇め、その神のために犠牲を捧げなければならないという、崇拝と血腥さが一体となった逆説的な宗教形態がつくりだされるのです。

狩猟採集社会において自然は人間に敵対するものではなく、贈与を与える存在でした。農耕牧畜を始めることにより、自然は人間に敵対する存在となります。雨や風など季節の巡りが順調になされないならば、旱魃や洪水などが引き起こされてしまいます。そこで自然を人間の希望にかなうように願うことが宗教となり、自然を家畜化し、栽培化することで労働が発生します。

 

今帰仁村の古宇利島の神話に、労働発生の神話があります。

 

むかしむかし古宇利(ふい)島(運天港の入口にある小さい島)に男の子と女の子が現れた。二人は裸体でいたが、まだ愧(は)ずるという気は起こらなかった。そして毎日天から落ちてくる餅を食って、無邪気に暮らしていたが、餅の食い残しを貯えるという分別が出るや否や、餅の供給が止まったのである。そこで二人の驚きは一通りでなく、天を仰いで、 
たうたうまへされ、たうたうまへ(お月様、もしお月様)
大餅(おほもち)やと餅お賜(た)べめしようれ(大きい餅を、太い餅を下さいまし)
うまぐる拾うて、おしやげやべら(赤螺(あかにし)を拾うて上げましょう) 
と歌ったが、その甲斐もなかった。彼らはこれから労働の苦を嘗(な)めなければならなかった。そして朝な夕な磯打際にウマグルなどをあさって、玉の緒を繋いでいたが、ある時海馬の交尾するのを見て、男女交媾の道を知った。二人は漸(ようや)く裸体の愧ずべきを悟り、クバの葉で陰部を隠すようになった。今日の沖縄三十六島の住民はこの二人の子孫であるとのことだ。
伊波普猷『古琉球』)

 

 

天から餅が落ちてくるというのは、狩猟採集社会における自然からの贈与にあたります。その餅を貯えるという知恵が発生したときに、天から餅は降らなくなり、労働の苦しみが発生するのです。そのことは狩猟採集社会から農耕牧畜社会への移行を暗示しています。

つまり自然からの贈与は絶え、人間は家畜の世話や畑を耕すといった労働によらなければ生活できない存在となったのです。そこには「とうもろこしおばあさん」とは異なった、狩猟採集社会から農耕牧畜社会への移行のドラマが語られています。古宇利島の神話では食べ物を「貯える」という農耕牧畜社会の技術に注目し、そのことによって労働という苦しみが生まれたというのです。

貯えることのできない社会では、権力者は発生しません。つまり貯えることによって権力者が発生し、多くの者が労働の苦しみを味あわなければならなかったということを物語っているのです。

古宇利島でも性交の話が出ていますが、人間の性交と出産が結びついて考えられるようになったのは、穀物栽培の社会からだとされています。「とうもろこしおばあさん」では、産む性である女性性に注目が払われ、産む性が神格化され、神である女性が犠牲に捧げられることで、穀物の豊穣がもたらされるということを語っています。

つまり農耕牧畜社会においては、家畜化された動物や栽培種化された穀物は、スピリチュアルなものから選別されて神となり、その神を殺害することによって、豊饒がもたらされます。それとともに労働の苦しみが発生するということになります。

大宇宙からの贈与は、農耕牧畜の開始によって、いったんは途絶えます。旧約聖書のアダムとイヴの楽園追放の神話は、古宇利島の神話と同類だとみてよいでしょう。古宇利島の神話は、ヘブライズム[1]における人間の原罪意識にまで拡大することができます。

キリスト教における神の子キリストの殺害は、その原罪を払拭するものとして、ジェンダーの違いはありますが、とうもろこしおばあさんと同じ位置づけにあるものとみてよいでしょう。インディアン社会とヘブライズム社会との差異は、一方は自然に敬意を払うのに対して、一方は自然をコントロールする文化を持つという違いです。

農耕牧畜社会において家族は定住生活を始めます。定住生活をしますので、狩猟採集社会におけるような家族構成員の流動性は低くなります。しかしミクロコスモスとしてマクロコスモスと対峙しなければなりませんので、コミュニティと家族は、狩猟採集社会におけるのと同様に、深く結びついたものでなければなりません。ただし定住生活の中で家族構成員の流動性は低くなりますので、家族構成の固定化が始まります。その固定化とともに親と子のあいだに支配・被支配の関係性が発生します。

 

3.           近代産業社会における家族

近代産業社会においては、人間は自然をコントロールするようになります。自然界の持つスピリチュアリティは脱魔術化され、科学の分析対象となり、コントロールされるものとなります。それとともに自然界の持つスピリチュアリティは貨幣に姿を変え、人間界を流通することになります。あらゆることがらが計算により支配されることになります。

人間の関係性においても、主従関係や雇用関係を確立するために、魔術的な手段にたよる必要はありません。技術的な手段と計算がそのかわりの役割を果たします[2]。モノを介してのスピリチュアルなコミュニケーション、つまり経済活動は、貨幣の流通によって代替されることになります。

スピリチュアルな価値が貨幣に換算されるようになると、貨幣は無制限に自己増殖を始めることになります。スピリチュアリティの脱魔術化によって、経済活動は大宇宙との双方向性を失い、無制限の自己増殖を目的化してしまうのです。

近代産業社会における家族は、小宇宙であるコミュニティとの絆から解放されます。大宇宙のスピリチュアルティが脱魔術化されるなかで、家族はコミュニティに守られる必要はなくなります。大宇宙のスピリチュアルティが支配していた社会では、家族と大宇宙とのあいだにはコミュニティという小宇宙が必要とされました。コミュニティが敷居となることで、大宇宙と交信するとともに、すべてのものを自然に(無に)帰してしまうという大宇宙の持つ巨大な力を制限することができたのです。

しかし自然界の持つスピリチュアリティが脱魔術化され、科学によってコントロールされるものになると、家族を守るものとしてのコミュニティの機能も、合理性を阻む固陋(ころう)なものとみなされるようになり、その価値が否定されるようになります。そのことによって近代家族は、個人と家族が強固に結びつく家族形態となったのです。

 

4.           生産型社会から消費型社会への移行

しかし近代産業社会はある一定の水準に達すると、生産型社会から消費型社会へ移行します。消費型社会とは社会において生産の現場が見えなくなり、生産の場と消費の場が分離される社会のことをいいます。そのような社会において家族は、消費の場として機能します。

このように生産の現場が見えなくなり、消費の場しか見えないという社会構造は、経済活動としては狩猟採集社会と類似するかもしれません。狩猟採集社会は経済活動において、生産する社会ではなく消費する社会だったからです。狩猟採集社会において生産は自然がします。人間は自然が与えてくれた恵みを消費するだけの存在だったのです。ただしその消費には、自然への感謝がありました。感謝することにより自然は、人間に恵みを与え続けたのです。

消費型社会においては消費が生産を決定します。クオリティの高い消費が生産を安定させ、生産を持続的なものにすることができるからです。消費行動が低価格なものを求める方向を志向すれば、デフレスパイラル[3]を引き起こします。このデフレスパイラルを食い止めるためには、消費者の収入が安定していること、消費者が低価格なものではなくクオリティの高い商品を求める消費活動をすることです。

企業にとっては労働者の低賃金化、消費者にとっては低価格な商品を求めることは経済合理的な行動ですが、消費型社会においてはその経済合理性がデフレスパイラルを引き起こすということです。企業が労働者のリストラや賃金カットを我慢し、消費者が同じ商品であればクオリティの高い高価な商品を購入することにより、デフレスパイラルは止まり、景気は回復に向かいます。しかしそのためには経済合理性とは異なる価値観をもたなければなりません。

企業が労働者のリストラや賃金カットを我慢するということは、企業収益を労働者に分かち合うということを意味します。消費者が乏しい家計の中からクオリティの高い商品を購入するということは、蓄えることを放棄して、陳腐化することのないクオリティの高い商品で持続可能な生活を送ることを意味します。この分かち合うこと、蓄えないことという経済活動は、構造としては狩猟採集社会の経済活動と同じです。

消費型社会であった狩猟採集社会では、自然の恵みの分配に細心の配慮がなされました。富が偏ることなく、コミュニティの全員に行き渡るように様々なタブーが設けられていたのです。

たとえば南米インディアンの中には、狩人は自分が倒した獲物は自分が食べてはいけないというタブーのある社会があります。狩人に与えられるのは名誉だけで、本人は自分が倒した獲物は食べることができず、ほかの狩人が倒した獲物しか食べることができないのです。

アチェ〔南米パラグアイ南東部のブラジル国境近くに住む民族〕の狩人には、自分が捕えた獲物を消費することを厳しく禁ずる食物禁忌が課せられている。すなわち、「殺した獣を、自ら食べてはならない」のだ。したがって、男は野営地に戻ると、獲物を家族(妻と子供達)そしてバンドの他の成員に分ける。ところが、既にふれた通り獲物はグアヤキの食料の中でもっとも重要な位置をしめている。したがって、男はそれぞれ、一生の間他人のために狩りを行ない、自分自身の食料を他人から受けとることになる。(クラストル『国家に抗する社会』) 

 

 

大変不自由なタブーのように感じられますが、そのことによって狩人の個人的な技量の差による富の偏りはなくなり、結果的に獲物はコミュニティの全員にとどこおりなく行き渡るようになるのです。つまりそのようなタブーをもうけることにより、相互依存的な社会をつくりだしているのです。

消費型社会への移行により、近代家族も、富の自己増殖活動のために家族が凝集する必要性は低くなってきました。そこでは新たな家族形態が求められます。

近代産業社会が消費型社会へ移行した現代において、狩猟採集社会や農耕牧畜社会のような持続可能な安定的な社会を形成するために、新たな社会観が求められます。消費型社会への移行期にマルセル・モースの『贈与論』が再評価されたのは、そのような新たな社会観への手がかりを求めてのことだっただろうと思われます。

 

5.           モースの贈与論

モースは贈与論において、贈与には返礼が義務づけられているのだと指摘します。そのシステムは物(マテリアリティ)と霊(スピリチュアリティ)を切り離すことなく、物には霊が込められているという物と霊との二重性によって作動します。モースは物と霊によるそのシステムをニュージーランドマオリ族の言葉から解き明かします。

 

物の霊、特に森の霊や森の獲物である「ハウ(hau)」について、エルンスト・ベストのマオリ族の優れたインフォーマント(情報提供者)の一人、タマティ・ラナイピリが、全く偶然に、何の先入観もなしに、この問題を解く鍵をわれわれに与えている。「私はハウについてお話しします。ハウは吹いている風ではありません。全くそのようなものではないのです。仮にあなたがある品物(タオンガ)を所有していて、それを私にくれたとしましょう。あなたはそれを代価なしにくれたとします。私たちはそれを売買したのではありません。そこで私がしばらく後にその品を第三者に譲ったとします。そしてその人はそのお返し(「ウトゥ(utu)」)として、何かの品(タオンガ)を私にくれます。ところで、彼が私にくれたタオンガは、私が始めにあなたから貰い、次いで彼に与えたタオンガの霊(ハウ)なのです。(あなたのところから来た)タオンガによって私が(彼から)受け取ったタオンガを、私はあなたにお返ししなければなりません。私としましては、これらのタオンガが望ましいもの(rawe)であっても、望ましくないもの(kino)であっても、それをしまっておくのは正しい(tika)とは言えません。私はそれをあなたにお返ししなければならないのです。それはあなたが私にくれたタオンガのハウだからです。この二つ目のタオンガを持ち続けると、私には何か悪いことがおこり、死ぬことになるでしょう。このようなものがハウ、個人の所有物のハウ、タオンガのハウ、森のハウなのです。Kati ena(この問題についてはもう十分です)」。(マルセル・モース(吉田禎吾・江川純一訳)『贈与論』)

 

 

これを図式化すると、タオンガは品物です。タオンガはAからB、さらにCへと贈与されます。贈与に対する返礼である別のタオンガは、逆コースをたどってCからB、さらにAへと返されます。ある品物がA→B→Cと所有者を変えるのに対して、返礼である別の品物はC→B→Aと所有者を変えます。AとBとのやりとりだけでしたら、さほどむつかしい問題ではありません。贈り物に対して返礼があるだけなのです。しかし第三者であるCがこの贈与交換のリンクに入ると、問題はややこしくなります。CとAは直接の贈与交換の相手ではありません。それなのにCも贈与交換のリンクに入ってくるのです。

その謎を解く鍵は、タオンガの霊であるハウにあります。ハウは森の霊とされていますので、異界からもたらされたものだということができます。そして個人の所有物やタオンガなども同じハウとされています。つまりすべての物には、異界からもたらされたハウが憑いているものとされているのです。物の贈与は、同時にハウの贈与でもあるわけです。ハウは森の霊ですので、ハウをとどめておくことは不吉なこととされます。

ですからハウは別な品物に載せて元の所有者に返さなければならないのです。モースは品物の流れとは逆行するハウの流れを、ハウが帰りたがっているのだとしています。「要するに、ハウは生まれたところ、森やクランの聖地、あるいはその所有者のもとへ帰りたがるのである」(モース)。

ハウが異界からもたらされた霊であり、物自体は消滅してもハウ自体は消滅させられることはないので、ハウはどこまでも贈与交換によって人間関係を延長させます。そしてハウが森の霊であるかぎりにおいて、返礼は必ずなされなければならないのです。もし返礼を怠る場合には、ハウは返礼を怠るものを死に至らしめることになるのです。

ハウを大宇宙からもたらされた霊的な富であり、タオンガを人間どうしの小宇宙での富とした場合、小宇宙の富を司るものは大宇宙からもたらされた霊だということができます。そして大宇宙からもたらされた霊は、小宇宙での富を停滞させることを好みません。小宇宙での富は循環しなければなりません。さもないと大宇宙の霊から手痛い報いを受けることになるのです。

 

6.           人間どうしの贈与交換

この贈与と返礼のシステムを、モースは、人間どうしの贈与交換と人間と異界=他界との贈与交換に分けて分析しています。

人間どうしの贈与交換は、現在においても社会の土台をなしていますが、もっとも端的な例は家族に求めることができるでしょう。家族ほど市場的売買交換にふさわしくないものはありません。親から子へ、祖父母から孫へ、一方的な贈与がなされるのは当然のこととされています。

贈与の返礼は、家族的な情愛です。この大きな贈与のサイクルが、家族を成立させているのだといってもよいでしょう。イエが制度化されると返礼は親孝行として義務化されます。しかし人類史的には、親孝行などのような返礼を求める家族形態は例外に属するものだといえるでしょう。それは永続するイエという意識が発生することによって起こります。

永続するイエ意識が成立していない社会においては、家族は返礼を求めることのない一方的な贈与関係によって形成されています。贈与に対する返礼を求めない、あるいは贈与した本人に対する返礼をことさらおこなわないということにより、家族という不思議なコミュニティは、「帰る場所」としての宇宙論的意義をもつことになるのです。

これは後で詳述しますが、贈与の一方的な流れこそが、むしろ形を変えた大きな返礼になるということが、家族という不思議なコミュニティの意味するところだとおもわれます。

人間どうしの贈与交換について重要なことは、贈与に対してただちに返礼が求められるという点にはありません。贈与に対する返礼が遅れることに価値が置かれるという点にあります。贈与に対して時間をおかずに返礼があった場合、贈与によって確保された信頼関係も、底の浅いものとなってしまいます。

贈与に対する返礼は、時間をかければかけるほど、信頼関係は保たれることになります。それも同じ人間どうしのやりとりではなく、次々に異なる人に贈与がなされ、それが最終的に贈与する本人に帰ってくるならば、多くの人を介在した分だけ、贈与の価値は増すことになります。

宗教学者中沢新一は、贈り物をもらって、それに即座にお返しをするのは失礼なことだとしています。

 

贈り物をもらって、それに即座にお返しをするのは失礼なことですし、また同じ価値をもったモノを返礼にすることはできません。贈り物はいただいてしばらく時間がたってから、おもむろに返礼はなされなければなりません。交換の場合ですと、商品とその対価はできるだけ間をおかずに交換されなければなりませんが、贈与では、返礼は長い時間間隔をおいてから返ってきたほうが、友情や信頼が持続していることの証拠として、むしろ礼儀正しいことだと感じられるのです。(中沢新一『愛と経済のロゴス』)

 

 

日本のことわざに「情けは人のためならず」という言葉がありますが、これは情けをかけるのは他人のためではない、他人にかけた情けは巡り巡って必ず自分のところに戻ってくるのだ、ということをあらわしています。そして多くの人の善意がくり返されることによって戻ってくる情けは、信頼関係の増幅であり、遅延された分だけ価値が高められているということをあらわしているのです。

 

7.           異界や他界との贈与交換

二つ目の贈与交換は、異界や他界との贈与交換です。異界や他界は大宇宙(マクロコスモス)とみなされ、個人や家族、共同体は、その大宇宙に包まれた小宇宙(ミクロコスモス)とみなされていました。沖縄のことわざに「グソーヤアミデー」というものがあります。

グソーというのは後生のことで、他界を指します。アミデーというのは雨垂れ、つまり雨垂れする軒下のことをあらわします。このことわざの意味は、「あの世の人は雨戸のすぐ外だよ」ということです。死者はすぐ間近に存在しているということです。このことわざにみられるように、一歩外に出ると、そこは異界や他界である大宇宙の領域だったのです。

人間のコミュニティという小宇宙は、異界や他界という大宇宙に包まれていました。そのため異界や他界との贈与交換は、人間どうしの贈与交換以上に重要なこととされていました。富は異界や他界に存在するものとみなされ、異界や他界との贈与交換によって富は人間の世界にもたらされるものとされていたのです。

昔話や伝説を振り返ると、富は異界や他界にあるとされる説話が普遍的です。幸運な者だけがそれを手に入れることができるのですが、その幸運な者は努力して富を手に入れるのではありません。異界や他界の目にかなうものだけが幸運を手に入れることができるのです。歴史学者阿部謹也は、このような説話の世界を「小宇宙から大宇宙を垣間見る所で成立したもの」だとしています。

 

私は、グリムのメルヘンはほとんど例外なしに小宇宙から大宇宙を垣間見る所で成立したものだという風に考えています。なぜかと言うとメルヘンの主人公は基本的にはひとり旅ですね。メルヘンの主人公はひとりで旅をし、そして必ずどこかで救い手が現れています。彼を助ける人というのは全部大宇宙から来る。妖精とか植物とか動物とかですね。決して人間、仲間の人間ではないんですね。大宇宙から来るんです。そして彼は、別れ道に来ても一切迷うことはなく、必ず右か左にぱっと進むのです。また、難問を課されても少しも苦しむことがない。誰か必ず助け手が現れてすべての難問は解決されるんですね。そしてもう少し考えれば、メルヘンの主人公には内面性というものがない。あるいは内面的な葛藤というものがないんですね。(阿部謹也『中世賤民の宇宙』) 

 

 

「メルヘンの主人公には内面性というものがない」という指摘は重要です。近代的知の枠組みでは常に内面的な葛藤が物語の主題となりました。私とは何者なのかという問いが重要視されたのです。私という個人が関係性によって創られたものであるならば、その内側をいくら覗き込んでも答えは見つかりません。むしろ社会的関係性の網の目の一端が私という個人であるという認識に立たなければ答えは見つかることはないのです。

自助グループにおける「言いっ放し、聞きっ放し」というコミュニケーションの方法も、内面性の放棄だとみることができます。自己の内面に意味を持たせるのではなく、自己を語るという外面に意味を持たせるのです。それは誰も触れることのできない内面性を、誰でも聞くことができるという外面性に反転させる作業になります。外面性というのは見られた存在としての私です。それは単に他者に見られるという私を意味するだけではありません。

近代社会は、「われ思うゆえにわれあり」というような近代的自我を確立し、内面的な葛藤を重視しました。その結果、自己の内面を重視し、外面を軽視することになりました。外見を飾らないことが内面のクオリティを表現するものとみなしたのです。しかし近代社会以外の多くの社会では、外面によって宇宙論的秩序の中にある自己を表現しました。

近代社会においてタトゥーやピアシングは内面性がないものとみなされ、野蛮を物語るものとして排除されていきました。しかし多くの社会において、タトゥーやピアシングは、自己の身体に宇宙論的秩序を表現するものでした。そのことによって宇宙論的秩序の中にある自己を表現したのです。タトゥーやピアシングなどのような外面性による自己表現は、大宇宙の一部である自己を表現していたといえるのです。つまり内面性ではなく外面性によって、人間は大宇宙の秩序とつながることができたのです。ですから「一切迷うこと」がないのです。

アディクションはスピリチュアルな病であるという言い方がなされます。それは近代社会から排除されたスピリチュアリティを感じることによって、はじめて「内面的孤独化の感情」(ウェーバー)から解放され、回復に向かうことができる病気であるからといえるでしょう。

大宇宙との贈与交換で、もう一つ重要なことがあります。それは生と死です。ハウとタオンガの関係は、人間の霊と肉体においても同じ構図でとらえられました。森の霊であるハウは肉体としてのタオンガとして生誕します。そしてハウは大宇宙である森へ帰りたがります。ハウが小宇宙へ出現するとき、そして大宇宙へ帰還するとき、大宇宙と小宇宙との通路が開かれます。そのときに大宇宙との贈与交換がおこなわれるのです。生誕も死も異界や他界の富をもたらす機会であったのです。

AAにおいても「霊的な目覚め」が重視されましたが、その霊性はハウだということができます。タオンガとハウの二重性により、贈与交換のシステムは作動するのですが、霊的に目覚めるということは、自己をタオンガとして所有するのではなく、ハウとして贈与交換のリンクのなかに投げ入れることを意味します。

 

8.           贈与交換と家族

家族は贈与交換のリンクにおいて、返礼の義務がともなうことのない、一方的な贈与の流れがあるだけのもっともピュアな形態であるということができるでしょう。通常、親から子への贈与、祖父母から孫への贈与などには、返礼は期待されません。返礼が期待されるとなると、それは家族という関係性ではなく、支配・被支配という関係性になります。そのような関係性の家族があるとしても、それは病んでいる家族関係だといえるでしょう。

モースの『贈与論』の題字にスカンディナビアの古代神話伝説詩『エッダ』が引用されていますが、その一節に「贈り物には贈り物を返さなければならない」という贈与に対する返礼の義務がうたわれています。

たとえば沖縄では、採れたての野菜などをいただいた場合、その野菜を入れていた笊を空のままで返してはいけないということがいわれていました。どんなものでもよいから、笊に何かを入れて笊を返さなければならないとされていたのです。この風習などは、とりあえずの返礼だということができるでしょう。

しかし贈与にともなう返礼は、遅延されるほど価値を増すものとされています。ハウを恐れるだけではなく、ハウが小宇宙を循環することにより、大宇宙との連続性がもたらされてくるのです。その遅延される返礼は家族において端的にあらわれます。

コミュニティ内における贈与には返礼する義務がともないます。しかし家族内における贈与には返礼の義務がともなうというイメージはありません。親から子へ、子から孫へと一方的な贈与の流れがあるだけのようにみえます。ここに他の贈与交換と家族における贈与交換の違いが認められます。その秘密は反復にあるような気がします。反復とは何かというと、生育のやり直しです。

私という人間は家族によって成育されますが、言語を習得する以前の生育の過程を自覚することはできません。ただ一方的な贈与を受けるだけです。私に子どもが生まれるとすると、私は子どもを養育しますが、そこで反復されるのは、私を養育した親の育児体験を追体験することです。しかし私の子どもがさらに子どもをつくり、私の子どもが私にとって孫に当たる人間を養育する段階に至ると、私は養育される私の体験を、孫を通して追体験することになります。つまり孫を通して言語習得以前の自分の生育の過程を反復することになります。

このような言語習得以前の生育過程の反復は、家族においてしかなされません。そこに家族という小さなコミュニティの必要性があるのだと思われます。贈与に対する返礼は、行為としては無いように見えるのですが、実は孫を通して自分の成育過程を反復することによって、子どもから返礼を受けているのだとみることができるでしょう。孫は祖父母である「私」の反復した姿です。親が子を愛するならば、それは「子」の姿で反復される「私」への返礼になるのです。

わかりやすく血縁関係の言葉で説明しましたが、この家族的な贈与の流れは、血縁関係である必要もありません。極論をいえば、世界の赤ん坊のすべては、言語獲得以前の「私」の反復する姿なのです。ですから世界のすべての赤ん坊が幸せであることが、そのまま「私」が愛される存在であり、幸せであることにつながるのです。

これを図式であらわしますと、贈与の流れは、A→B→A”という流れになります。A”というのは、孫であるとともに、自己の生育過程の反復を意味します。一方的な贈与の流れが、実は形を変えた返礼であるということになります。この一方的な贈与の流れこそが、家族を他の人間コミュニティとは異なる次元のものにしているのだということができます。

一方的な贈与の流れは、大宇宙から小宇宙へなされるものです。家族はその意味において宇宙論的な意義を有するコミュニティだということができるでしょう。ハウが大宇宙に帰りたがる性質をもつように、家族も大宇宙とのハウの循環のなかで、帰るべき場所となるのです。

親孝行というイデオロギーや近代家族における「爆発的な親密性」は、ハウの流れを滞留させるものだということができるでしょう。

親孝行イデオロギーにおいては、親から受けた贈与を、ただちに返礼として親に返さなければなりません。近代家族においては親の期待値に応えなければならないという、ただちにされる返礼が求められます。その関係性は、家族を開放系から閉鎖系へと変換させてしまいます。ハウの流れが、A→B→A”から、A→B→Aへと変わるのです。

そのような関係性においては、ハウの大宇宙から小宇宙へと循環する流れが止まりますので、家族は「帰る場所」であるとともに「自分を引き篭もらせる場所」ともなるのです。

 

9.           まとめに

近代産業社会は、富が無制限に自己増殖を繰り返すという近代資本主義の社会でした。富の無制限な自己増殖にあわせて、家族はコミュニティから引き篭もりを開始します。コミュニティは無制限の拡大を好まず、家族をコミュニティの一員として限定づけようとします。そのため家族とコミュニティが分離していくのです。

そのコミュニティと家族の分離を可能にしたのが、女性の家族への囲い込みでした。女性を家族に囲い込むことによって、コミュニティの持つ相互扶助機能を女性に肩代わりさせたのです。無制限に富の自己増殖を繰り返す近代資本主義社会において、無制限に能力を伸ばす可能性を持つものは子どもでした。そのため子どもは学校と子供部屋に囲い込まれ、親の期待を果たす存在となります。

そのような近代家族の成立が可能であったのは、資本主義社会が生産型社会であったときです。資本主義社会が一定の発達段階に達し、消費型社会に移行すると、女性と子どもを家族に囲い込む近代家族の形態は、維持することができなくなります。

消費型社会に移行するとともに昇給の伸びは鈍化し、管理職ポストも増やすことができなくなります。昇給の伸びが鈍化すると、男性は女性を家族に囲い込むだけの収入が得られなくなります。管理職ポストが増加しないことは、子どもが親の期待に応えることができなくなることを意味します。①昇給の伸びが鈍化すること、②子どもが親の期待する職業ポストに就けなくなること、というこの二つの要因により、近代家族はその成立基盤が揺らいできます。

家族形態と産業構造と宗教形態は、常に三位一体で変化していきます。産業構造が生産型社会から消費型社会へ移行したとき、家族形態、宗教形態ともに、産業構造にあわせて変化しなければなりません。そこではどのような変化が予期されるでしょうか。

消費型社会が企業収益の労働者へのシェア(分かち合い)や消費行動におけるクオリティの高さに求められるならば、それに類似する社会は狩猟採集社会だということができるでしょう。狩猟採集社会においても、獲物のシェアや獲物に対する敬意に満ちあふれていたからです。

生産型社会では企業が収益を蓄積して企業規模を拡大し、家族が財産を獲得するのは、社会的な共通利益となっていました。しかし消費型社会へ移行するともに、産業社会において共通利益とされていたものが、社会的停滞の元凶となってしまいました。企業収益の確保が労働者のリストラや賃金カットによって果たされ、家族の財産維持が消費の抑制によってなされていくようになるからです。

消費型社会においては、企業活動も家族形態も変化していかなければなりません。そのためには宗教形態の変化も必要とされます。近代産業社会が宗教の脱魔術化によってスピリチュアルなものを排斥したのに対して、スピリチュアルなものの回復が必要とされます。なぜならば消費型社会は、「消費が生産を決定する」社会ですので、生産と消費の関係性が生産型社会と逆転しなければなりません。

その逆転を可能にするのが、商品にともなうスピリチュアリティです。そのスピリチュアリティによって消費者と生産者が結ばれます。そのことによって消費者と生産者の双方に満足を与えるクオリティの高い商品の生産が可能となるのです。生産型社会が商品からスピリチュアリティを排除することによって成立したのに反し、消費型社会では商品にスピリチュアリティを込めることにより、生産が成立するのです。

家族も「帰る場所」としての家族形態が求められるでしょう。そこには生命科学や財産の維持管理によって定義される家族像だけではなく、スピリチュアルなものが必要とされるものとおもわれます。スピリチュアルなものを介在させることによって、家族はコミュニティに開かれることが可能となるのではないでしょうか。

 

参考文献

クラストル「国家に抗する社会』(1989年、水声社

マルセル・モース『贈与論』(2009年、ちくま学芸文庫

阿部謹也『中世賤民の宇宙』(2007年、ちくま学芸文庫

伊波普猷『古琉球』(2000年、岩波書店

中沢新一『愛と経済のロゴス』(2003年、講談社選書メチエ

 

 

[1] 古代ユダヤ教から発生した文化のこと。キリスト教イスラム教もそれに含まれる。

[2] マックス・ウェーバー(岡部拓也 訳)『職業としての科学』

[3] デフレーション(Deflation)と、スパイラル(Spiral=螺旋)を掛け合わせた言葉。物価の下落と実体経済の縮小とが、相互に作用して、らせん階段を下りるようにどんどん下降していくこと。物価の下落が継続して起こり、それにつれて景気がどんどん悪くなる状況をさす。物価下落→企業の売上の減少→企業収益の滅少(売上が減少したにもかかわらず、賃金などは短期的にはすぐに下がらないため)→企業行動の慎重化=設備投資や雇用の調整→個人消費などの最終需要の滅少→さらなる物価下落

 

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