とうもろこしおばあさん ミダス王 ロード・オブ・ザ・リング

 

 

1.      はじめに

前回の講義では、近代家族にとって自助グループが伝統社会的なコミュニティの代わりを果たすのではないのかという視点から、近代家族とコミュニティの再構築の問題を考えてきました。近代家族がコミュニティからの引き篭もりによって誕生したのだとするならば、コミュニティとのかかわりの再構築が近代家族にとって大きな課題となります。その再構築の手がかりとして見えてきたのが、アディクションにともなう自助グループの存在でした。

自助グループでは「言いっ放し、聞きっ放し」というコミュニケーションの方法がとられています。それは交換価値的なコミュニケーションではなく、互いの存在をそのまま受け入れる存在価値的コミュニケーションだといえます。そのようなコミュニケーションが現代の社会においてどのような意義を有するのか、それを近代家族と資本主義社会とスピリチュアル(霊的なもの)をテーマにして考えてみたいと思います。

2.      家族・産業・宗教

アディクションは近代家族の構造自体がもたらす病といえます。その構造からの脱却には、近代社会に張り巡らされている知の枠組みを超えることが必要とされたのだということができます。

理性や意志などといった近代を形成した知の枠組みは、アディクションの前では無力でした。無力であるということを認める〈底つき状態〉から、アディクションは回復への契機をもつことになります。その実践的な回復プログラムのなかで有効であったのは、久しく忘れられていたハイヤー・パワーや霊的な目覚めなどといった宗教的なキーワードでした。

歴史的に最初に成功したセルフヘルプグループであるアルコホーリクス・アノニマス(Alco
holics Anonymous匿名のアルコール依存者たち 以下AA)は、飲酒をしないで生きるというシンプルな目的を達成するために、実践的なプログラムを編み出しました。

AAのプログラムで特徴的なことは、個人であることにまつわる近代的な意義づけを解体し、スピリチュアルなものを再評価するという点にあります。AAの回復プログラムである「12のステップ」では、冒頭に「われわれはアルコールに対し無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた。」という確認から入ります。アディクションに対して無力であることを認めるという自己認識から、回復プログラムは始まるのです。そして「われわれは自分より偉大な力が、われわれを正気に戻してくれると信じるようになった。」というハイヤー・パワー(偉大な力)の肯定があります。

このハイヤー・パワーというのがなかなか理解しにくいイメージなのですが、これをキリスト教の神ととらえずスピリチュアルなものととらえるならば、普遍的なものであるといえます。世界各地の様々な社会の様々なシャーマン(超自然的存在と直接接触・交流・交信する役割を担う人)やメディスンマン(病気を治す超能力を持っていると信じられている人)は、現代社会においても絶えることなく存在し、多くの人々がその治癒行為を受けています。それは土俗的な宗教であるにとどまらず、高度な資本主義社会に住む人々にさえも、その存在が求められているのです。

スピリチュアルなものは近代的な理性や合理主義からは、迷信に近いものとみなされますが、そのような見方が確立するのは西欧においても200年ほど前のことであり、多くの社会においてはつい最近まで、迷信ではなく宗教として信じられていたのです。近代的な知性の枠組みでは、まだ公的に認められることは少ないのですが、実際にはスピリチュアルなものに救いを求める人たちは多いのです。近代的な思考の枠組みがそれを公的なものとして認めないだけです。

また児童文学のファンタジーの世界やアニメの世界にはスピリチュアルなものが満ちあふれています。それはフィクションとして公認されているのですが、なぜそのようなスピリチュアルなものが求められ続けていられるのかについて、近代的な知性の枠組みで真剣に考えられることはありません。それは子どもの世界の物語であり、大人の世界では公認されないものとしてかろうじてその存在が認められているといってもよいでしょう。しかし大人の世界で公認されないだけで、スピリチュアルなものに対する需要が絶えることはありません。

ハイヤー・パワーはそのようなスピリチュアルなものと理解してよいでしょう。近代的な知性の枠組みでは、スピリチュアルなものの存在を的確にとらえることはありませんでしたが、過去から存在し、現在においても必要とされるものを、アディクションの底つきの状態で出会ったのだとみるならば、AAはアディクションをとおして近代的知性の枠組みの限界を超えたのだとみることができます。

伝統的な社会においてコミュニティと家族、個人が不可分なものであったように、スピリチュアルなものの存在も、コミュニティと家族、個人を結びつけるものとして重要な役割を果たしていました。しかし近代家族において家族とコミュニティとのかかわりが二次的なものとなり、家族と個人が爆発的情愛で結び付けられたように、近代社会においてスピリチュアルなものは二次的なものとされ、理性と合理主義が知の枠組みとなります。

しかしアディクションが個人の意志力によって克服することができず、家族の協力によっても回復することのできない病気であるとするなら、二次的なものとされたコミュニティやスピリチュアリティも再構築され、再評価されなければならないでしょう。アディクションからの回復において、自助グループという新たなコミュニティを再構築することが有効でしたが、同じように自助グループの中で、スピリチュアルなものの再評価も必要とされるのです。

個人と家族、コミュニティが不可分の三位一体の存在であるように、人間の社会は、家族形態と産業構造と宗教形態が三位一体のメカニズムとして機能しています。近代家族が家族のコミュニティからの引き篭もりによって誕生したように、近代産業社会もスピリチュアルなものを排除することによって成立したのだとみることができます。

3.      産業構造と宗教形態との逆説的な関連

産業構造を、モノを介してのコミュニケーションとみるならば、産業構造は常にスピリチュアルなものの逆説的な表現として成立してきたものとみることができます。なぜならばモノには本来、自然界の精霊や異界=他界の霊魂、人間界における最初の所有者の霊魂が込められていたからです。その霊的なモノと逆説的な関係を築くことにより、産業構造は成立することができたものとみることができます。つまり霊的な世界とのコミュニケーションがモノを介して成立したとき、はじめて産業構造は、人間的なものとして成立するのです。

狩猟採集社会のアメリカ・インディアンにとって、農耕は大地を傷つける行為だとされました。自然の恵みによって生きていた狩猟採集民は、恵みをもたらす自然への感謝を表わすことが宗教形態でした。その自然の秩序に人間が手を加えることなどは冒涜的な行為だったのです。

 

白人よ、お前たちは私に、大地を耕せ、と要求する。この私に、ナイフを手にして、自分の母親の胸を裂け、と言うのか。そんなことをすれば、私が死ぬとき、母親はその胸に、私を優しく抱きとってはくれないだろう。(中沢新一訳『インディアンの言葉』)

 

 

白人たちが大地を耕せと要求したのは、インディアンから土地を取り上げるためでした。狩猟採集社会が広大な土地を必要とするのに対して、農耕生活はより狭い土地でも生存することが可能だったからです。しかし狩猟採集民にとって農耕は、母親の胸を切り裂くのに等しい行為だったのです。

一方、狩猟採集社会から農耕牧畜社会への移行への過程にあったアメリカ・インディアンに、「とうもろこしおばあさん」という民話があります。こんな話です。

むかし、アメリカに住むインディアンは、男たちは、野牛をとり、女たちは、いもを掘って暮らしていました。あるとき、小さな村に、ひとりのおばあさんがやってきて、「ここに ひとばん とめてくださらんか」とたのみました。インディアンの若者は、こころよくおばあさんを泊めてあげました。つぎの日、大人たちが、狩りやいも掘りに出かけてしまうと、おばあさんはテントの中で、なにやらおいしそうなものを作りました。それは、今まで見たこともないパンでした。みんなで食べてみると、とてもおいしいのです。「やぎゅうでも、いもでもない。なんだろう、このおいしいものは」と聞くと、「それは、とうもろこしというもんだよ」とおばあさんは、答えてくれました。でも、どこで手に入れたかは、どうしても教えてくれませんでした。ふしぎに思った若者は、ある日、狩りに出かけたふりをして、戻ってくると、こっそりテントの中をのぞいてみました。すると、中ではおばあさんが着物の裾をめくり自分の腿を掻いていました。すると腿からはとうもろこしの粒がぽろぽろと落ち、やがて床に溢れました。若者に見られたことに気づいたおばあさんは、次の朝、若者を平原に連れて行き、「枯れ草に火を点けなさい」といいました。そして「私の髪をつかんで灰の上を引きずりまわしなさい。最後には私を燃やしておしまい。怖がらなくてもいい。跡には小さな草の芽が出てくるだろう。そして三度丸い月が空に昇ったら見に来ておくれ」。わかものは、おばあさんにいわれたとおりにしました。

とうもろこしは、こうしてインディアンに伝わりました。それからというもの、インディアンはとうもろこしをみると、おばあさんを思い出し、一粒も無駄にしないで大切にしています。(秋野和子再話、秋野亥左牟画『とうもろこしおばあさん』より)

 

 

この話には、狩猟採集社会から農耕牧畜社会へ移行するときのドラマが描かれています。農耕牧畜は初期の段階では焼畑から始まりますが、その平原を焼くときの恐れとおののき、そして穀物を与えてくれることへの感謝が物語られています。穀物を栽培するということは、母なる大地を焼き、「殺害」する行為でもありました。そのことによって母なる大地から穀物が人間へもたらされます。

そこには神を殺害せざるを得ないという逆説があります。狩猟採集社会においては、自然に手を加えることはタブーとされているのですが、農耕牧畜社会においては、自然に手を加え、神を殺害するという逆説によってのみ、自然からの恵みがもたらされます。この逆説を成立させることができたとき、農耕牧畜社会は狩猟採集社会から続くスピリチュアルなものを再構築することができたのだということができます。

4.      スピリチュアルなものの排除

近代資本主義社会は、このようなスピリチュアルなものを排除して成立してきました。社会学者のマックス・ウェーバー(1864-1920)は、厳格で禁欲主義的なカルヴィニズム[1]のなかで、スピリチュアルなものが排除されていったのだとみています。カルヴィニズムの特徴は、誰が天国に行き、誰が地獄に落ちるのかは、前もって神に定められているとみたことです。ウェーバーはそこから信者の内面的孤独化の感情が生まれたのだとしています。

 

われわれが知りうるのは、人間の一部が救われ、残余のものは永遠に滅亡の状態に止まるということだけだ。人間の功績あるいは罪過がこの運命の決定にあずかると考えるのは、永遠の昔から定まっている神の絶対に自由な決意を人間の干渉によって動かしうると見なすことで、あり得べからざる思想なのだ。(中略)この悲愴な非人間性をおびる教説が、その壮大な帰結を身にゆだねた世代の心に与えずにはおかなかった結果は、何よりもまず、個々人のかつてみない内面的孤独化の感情だった。(マックス ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)

 

 

つまり人間が良いことをしようが悪いことをしようが、天国に行く者は前もって決まっているということです。カルヴィニズムではすべての人が救われるわけではありません。一部の人だけなのです。しかも誰がそうなのかは、神様しか知らないわけです。

その中で人々は孤立感に陥ります。誰が救われるのかわからないので、疑心暗鬼しかないからです。疑心暗鬼の中ではコミュニティへの信頼感は生まれません。ただ不安感の中で神とつながるしかないのです。カルヴィニズムは個人を徹底した不安の感情に突き落とし、その不安の感情から神と直接つながることを求めたのだといえます。

その強烈な不安感は、教会という場やスピリチュアルな儀式に救いを求めることはできません。教会に通おうがスピリチュアルな儀式に参加しようが、そこには救われるという保証はないからです。ウェーバーはそこに呪術からの解放をみたのです。

 

すなわち〔カルヴィニズムが〕教会や聖礼典による救済を完全に廃棄したということこそが、カトリシズムと比較して、無条件に異なる決定的な点だ。世界を呪術から解放するという宗教史上のあの偉大な過程、すなわち、古代ユダヤ預言者とともにはじまり、ギリシャの科学的思考と結合しつつ、救いのためのあらゆる呪術的方法を迷信とし邪悪として排斥したあの呪術からの解放の過程は、ここに完結をみたのだった。(ウェーバー前掲書)

 

呪術からの解放とは、合理化する思考法のことです。このような呪術からの解放は、スピリチュアルな感覚や感情を迷信として葬り去ります。そのような内面的孤独化と合理的な思考法により、資本主義の精神は誕生したのだとウェーバーはみています。つまり宗教構造の中からスピリチュアルなものを排除することにより、近代資本主義は誕生したのだということです。

5.      無限に自己増殖する資本主義の富

ウェーバーがいうように、魂の救いに関する強烈な不安感から近代資本主義が誕生したのだとみるならば、資本主義の富は無限に自己増殖を続け、とどまることはありません。狩猟採集社会における獲物や収穫物は自然からの贈与であり、農耕牧畜社会における穀物の豊饒も大地からの贈与としてスピリチュアルなものとされていました。しかし資本主義の富は不安から生み出され、スピリチュアルな要素は排除されています。スピリチュアルなものを排除しているからこそ、資本主義の富は無限に自己増殖を続けることが可能となっているのだといえます。

近代資本主義社会は、富の無限な自己増殖活動によって引き起こされました。富が無限に自己増殖を続けるということは、経済の右肩上がりを前提とする社会ができあがったということを意味します。その経済の右肩上がりを前提として近代家族は組織化されています。

近代家族は近代資本主義社会に適合的な家族形態であったのですが、そのためにスピリチュアルなものが家族から排除されることになりました。AAでいうところのハイヤー・パワーとは、スピリチュアルなものと再び出会うことにより、魂の救いに関する強烈な不安感から回復することを意味します。

近代資本主義社会は、富の無制限な蓄積によって引き起こされました。富の無制限な蓄積は近代固有の産業形態であるということができます。近代以前の社会においては、富の無制限な蓄積は公認されることはありませんでした。富は人を魅惑するものであるとともに、その蓄積は不吉なものとされていました。

ギリシャ神話には、触れるものすべてを黄金に変えてしまうというミダス王の神話があります。ミダス王はディオニュソスという豊穣とブドウ酒と酩酊の神からその不思議な力を授かります。しかし食べ物が硬くなり、飲み物が黄金の氷に固まるのを見たそのとき、ミダス王はこの贈り物が破滅のもとであることを悟ります。そしてディオニュソスにその不吉な能力を取り去ることを願ったのです。

ミダス王の、触れたものすべてを黄金に変えてしまうという不思議な力は、無制限に富の拡大再生産を続ける資本主義の構造と同じです。ミダス王はその能力を不吉なものとし、取り去ることを願うのですが、近代資本主義は無限の自己増殖運動を自己目的化します。

 

 

J.R.R.トールキン作の『ホビットの冒険』(映画:ロード・オブ・ザ・リング)では、妖精界や人間界など世界のすべてを支配する力を持つ指輪が登場します。その指輪をひょんなことから手に入れてしまったのは、妖精界の中でももっとも平和主義者で欲の少ないホビット族の少年フロムです。

この指輪を巡って妖精界や人間界を巻き込んだ戦いが繰り広げられます。この指輪に魅入られた者は、指輪から離れることができなくなり、指輪に人格まで支配されてしまいます。この指輪を消滅させるためには、「滅びの亀裂」という火山の火口に指輪を投げ入れるしかありません。欲の無いフロムでさえ何度も指輪に魅入られそうになるのですが、友人であり忠実な従者であるサムの助けで指輪の誘惑から逃れます。そしてサムとともに指輪を「滅びの亀裂」に投げ入れるのに成功するのです。

ロード・オブ・ザ・リング』の指輪は、資本主義の自己増殖する霊力の象徴であるともいえるでしょう。それを手にする者はそれに魅入られてしまい、人格さえも支配されてしまうのですから。またアディクションの状態ともよく似ています。指輪をアルコールや薬物などと置き換えてみると、構造は同じです。その指輪を手に入れると、もはや指輪から逃れることができなくなるからです。

その指輪を消滅させることができるのは、争いを好まず欲の無いホビットのフロムだけであり、フロムが指輪に魅入られて他人を信じなくなったときでさえ、フロムをサポートし続けたサムの友情だったのです。

 

6.      生産型社会から消費型社会への転換

フランスの社会学者マルセル・モース(1872-1950)は、主著『贈与論』(1924年)において、売買交換に先立つ交換形態として贈与交換があることを提唱しました。贈与交換とは贈り物をし、贈り物にはかならず返礼があることを前提とする交換形態です。

モースが贈与交換を提唱する前までは、売買交換の以前の交換形態は、物々交換であるとみなされていました。物々交換は、貨幣などの媒介物を経ず、物品と物品を直接に交換することをいいます。

物々交換という概念は、社会進化論的な概念でした。市場的売買交換を交換のあるべき姿だととらえ、物々交換をまだその段階に達していない未開の状態だとみたのです。つまり社会進化論的にいえば、貨幣などの媒介物が欠けている物品の交換は、未開のものであり、いずれ市場的売買交換へ進化しなければならないものとされていたのです。

モースはこのような社会進化論的な見方に異議を唱えました。贈与交換こそが人類史に普遍的にみられた交換形態であり、市場的売買交換が普及した現代においてさえ、贈与交換は行なわれ続けているとしたのです。

 

 

モースの贈与論は、1970年代に再評価を受けることになります。1970年代は、資本主義の先端地域において、経済の中心が生産型社会から消費型社会へと変換した時代でした。生産型社会においては、市場的売買交換を拡大再生産することが至上の課題であり続けたのです。しかし国内市場は、消費者の購買意欲があるあいだは、「作れば売れる」時代であったのですが、生活必需品がひととおり行き渡ってしまうと、「作れば売れる」時代は終わってしまいます。

消費者の購買意欲は、商品を買うこと自体より、商品の差異化を買うほうに向かいます。商品自体よりも商品の持つ他の商品とは異なる差異が価値となるのです。経済の中心がそのような段階に達すると、生産の流れは大きく変わり、「売れるものが作られる」時代へと変化します。

この変化は大きな変化でした。「売れるものが作られる」ということは、「売れるもの」しか「作られない」ということを意味するのです。生産型社会においては、生産する主体が経済活動の動向を支配していました。しかし消費型社会においては、消費者の動向が経済活動を左右するのです。それは経済活動の主役が、企業から消費者へ移ったことを意味します。消費者が購買意欲をもたないかぎり、経済は活性化しないのです。

それまでは企業が成長していくことがそのまま労働者の所得向上につながりました。ですから社会的価値観をつくりあげるのは企業でしたし、国の政策も企業のバックアップにつとめていれば、国の経営がうまくいっていたのです。国民経済というパイが増えることが、そのまま国民生活の向上につながったのです。

しかし消費型社会へ移行すると、パイが増えることに期待することはできなくなります。購買意欲というパイ自体はすでに充たされているからです。そうするとパイの拡大ではなく、パイの切り分け方が重要な政策課題となります。パイをいかに分配するかで経済活動が安定してくるかどうかが問われるようになってくるからです。

ここで二つのことが課題となります。一つは、パイの拡大からパイの切り分けにシフトが変更されたかどうかの問題です。もう一つは、パイの切り分けがどのようになされるかです。どちらの課題もスムーズに移行されなければ、経済活動は停滞するか低下することになります。

消費型社会へ移行するとともに、パイの拡大ではなく、パイの分配に経済活動の主軸が移ります。その時代にモースの『贈与論』が再評価されたのです。市場的売買交換よりも贈与交換が人類史において普遍的であるという指摘です。この視点は、パイの分配に経済活動の主軸が移るという時代において、パイの分配に理論的根拠を与えるものでした――残念ながら日本は、パイの分配に主軸を移すというシフトチェンジに遅れをとってしまいました。

消費者が購買意欲を維持するような政策はとられなかったのです。それどころか新自由主義という新たな拡大再生産へ舵をきったのです。その結果、経済活動は停滞を続けることになってしまいました。

1970年代という時代は、欧米や日本など資本主義の最先端を行く地域において、資本主義社会の構造が、生産型社会から消費型社会へと移行する画期的な時代でした。その時代にモースの『贈与論』が見直され、トールキンの『指輪物語』が熱心に読まれたのです。それは来るべき時代の課題が、富の増殖ではなく富の分配にあったことを、そして富の増殖がアディクションを招くことを予兆していたものではないかと思われます。

参考文献

J.R.R.トールキンホビットの冒険 下』(2000年、岩波少年文庫

ブルフィンチギリシャローマ神話』(1978年、岩波文庫

マックス ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1989年、岩波文庫)

マルセル・モース『贈与論』(2009年、ちくま学芸文庫

ミシェル・ピルクマン編、中沢新一訳『インディアンの言葉』(1996年、紀伊國屋書店

秋野和子再話、秋野亥左牟画『とうもろこしおばあさん』(1982年、福音館)

ロード・オブ・ザ・リング(DVD)』(2014年、ワーナー・ホーム・ビデオ)

 

 

 

[1] カルヴィニズム(Calvinism)とは、すべての上にある神の主権を強調する神学体系、およびクリスチャン生活の実践である。宗教改革の思想家ジャン・カルヴァンにちなんで名づけられている。ウェーバーはカルヴィニズムの中に「個々人のかつてみない内面的孤独化の感情」を見、それが資本主義の精神を生み出したとした。