エリコ・ロウ『太ったインディアンの警告』(2006年、NHK出版 生活人新書)

 



1.     インドを目指して「発見」されたアメリ

ヨーロッパは古代からインドや東南アジア地域との香辛料の交易ルートを持っていました。しかし、1453年にオスマン帝国トルコ人によるイスラム王朝〕がビザンツ帝国古代ローマ帝国の存続として残った東ローマ帝国〕を滅ぼし、地中海の制海権を得ると、これらを通る交易路に高い関税をかけました。

そのためヨーロッパ諸国は地中海を通らずにインドに行ける方法を模索することになります。その結果「発見」されたのが、アメリカという「新大陸」だったのです。

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【図像説明】経済的に重要なシルクロード(赤)と香辛料貿易のルート(青)は、オスマン帝国時代に遮断される。1453年のビザンツ帝国の崩壊は、アフリカ航路開拓のための探検を促し、大航海時代を引き起こした。以下特に参照を明記していない図像はネットから借用しています。

2.     インド人?の住むアメリ

インドへ向けて西側のコースを取ったのがクリストファー・コロンブス(1451ごろ-1506、イタリアの探検家)でした。彼は1492年に「インド」に到着します。しかしそれはインドではありませんでした。

アメリゴ・ベスプッチ(1454-1512、イタリアの探検家)は1499~1500年、1501~02年の2回にわたって西側のコースで「インド」を探索し、それがインドではなく「新大陸」ではないかと提唱しました。その提唱により、「新大陸」には「アメリカ」という名称が付けられることになりました。

しかしそこに住む人たちには、「インド人」という名称がそのまま使用されたのです。スペイン語ポルトガル語ではインディオといい、英語ではインディアンと発音されます。

もちろん「新大陸」にいたのはインド人ではありませんでした。彼らは1万2千年ほど前に、氷河期のベーリング海峡をこえて北アメリカに移住し、アメリカ先住民となったモンゴリアンだったのです。(エンカルタ2000より)

 

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コロンブスが到着した頃の南北アメリカ大陸には9000万人を超える人々が住んでいたと推定されています。この膨大な人口のほとんどは、白人との接触により絶滅寸前まで追い込まれました。

15世紀末~16世紀、すなわちコロンブスカリブ海に到着したころ、南北アメリカの陸地には9000万、あるいはそれ以上の人間がすんでいたと推定されている。そのうちおよそ1000万人は北アメリカ、今日のアメリカ合衆国とカナダにすみ、3000万人がメキシコ、1100万人が中央アメリカ、44万5000人がカリブ海の島々、3000万人が南アメリカアンデス地域、900万人が南アメリカのその他の地域にすんでいた。人によっては、これよりも少ない推定をすることもある。アメリカのどこでも同じだったが、ヨーロッパ人と接触するや、戦争、飢餓、強制労働、新しい伝染病などのために、先住民の人口は激減した。(エンカルタ2000)

同時期(1500年)のヨーロッパの推計人口は5600万人とされています。つまりヨーロッパ人は、自分たちの2倍近い人口を激減させたのです。

その当時の南北アメリカ大陸には千に近い部族=民族があり、ユーラシア大陸の西端の半島に過ぎなかったヨーロッパと比較すると、独特の伝統文化を育んでいた文明地域だったのです。

西欧史では「コロンブスが1492年に発見した新大陸」とされているアメリカ大陸は、実は未開の新世界などではありませんでした。

実際にはそこで少なくとも千に近い部族、総計数千万人の先住民族が千年の昔から広い大陸の東西南北に分散、それぞれに民主的な部族社会を築き、独特の伝統文化を育んでいたのですから、人類の文明の歴史が古い大陸だったのです。(エリコ・ロウ『太ったインディアンの警告』)

 

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インディアンを絶滅寸前まで追い詰めたヨーロッパ人にも、侵略の三つのタイプがありました。

中南米を占領したスペイン人はインディアンを労働者として使役し、キリスト教徒に改宗させようとしました。

カナダに進出したフランス人は、植民地を作ることよりも毛皮交易に熱心でしたので、インディアン虐殺の歴史は少ないものでした。

本国での宗教戦争から逃れて北米に進出したイギリス人は、インディアンを地上から抹殺し、インディアンのいなくなった土地に自分たちの信じる信仰の王国を建設しようとしました。

侵略のこの三つのタイプが、南北アメリカ大陸の歴史を変えることになります。

彼ら16世紀のスペイン人にとって、2つの目的、商業的目的と宗教的目的のためには、アメリカの先住民が必要だった。征服者は土地と先住民の労働力を手にいれようとし、キリスト教の聖職者や修道士たちは先住民の魂をほしがった。いずれも先住民には破滅的な結果しかもたらさなかった。(…)

カナダでは、いくぶん事情がことなった。この地に入ったフランス人の関心は、毛皮交易にあった。(…)彼らは先住民を自分たちと平等な人間とみなし、先住民との結婚も当然なことと考えていた。

いっぽう、イギリス人はまったく逆だった。彼らは土地をもとめたために、先住民を障害とみなしたのである。大西洋沿岸部にすみついた大勢のイギリス人は、先住民を力ずくでおいだした。こうして、今日のカナダとアメリカ合衆国とでは、ヨーロッパ人との出会い以後の先住民の歴史が大きくことなることになった。(エンカルタ2000)

3. ピュ-リタンの入植とインディアンの援助

1620年に、ピルグリムファーザーズ(Pilgrim Fathers「巡礼始祖」)と呼ばれるイギリスのピューリタンの人々が、北アメリカに植民地を築きました。これがアメリカ合衆国(以下アメリカ)建国の礎(いしずえ)となります。

ピューリタンとは、16世紀後半、英国国教会の改革政策を不徹底とし、いっそうの宗教改革をおしすすめようとしたグループ、またその流れをくむ人々のことで、「清教徒」とも訳されます。アメリカでは、ピューリタンの道徳主義と、神との契約による選民意識とが、その国民性に強い影響をおよぼしました。

彼らの入植当初の状況は厳しく、半年で半数程が病死したが、先住民インディアンのワンパノアグ族が食糧や物資を援助したおかげで冬を越えることができました。

ヨーロッパからの長い船旅の末に、「未開の地」にたどり着いた白人は、消耗しきっていました。(…)ビタミンC不足による壊血病で死にかけていた人々を、ビタミンCが豊富なクランベリーで癒し、栄養失調で痩せこけていた人々に七面鳥やトウモロコシで栄養を与え、サバイバルに必要な狩の仕方や農耕の仕方を教えたのは、異邦人を友として受け入れる友愛精神と包容力に満ちた、アメリカ・インディアンだったのです。(『太ったインディアンの警告』)

しかし間もなく、白人入植者たちは入植範囲を拡げ始め、インディアンとの間で土地と食料を巡って対立が発生し、戦闘が起きるようになりました。

ピルグリムはまず1630年にマサチューセッツ族の領土に進入。ピルグリムの白人が持ち込んだ天然痘により、天然痘に対して免疫力があまりなかったマサチューセッツ族の大半は病死しました。

天然痘(てんねんとう、 Variola、Smallpox)は天然痘ウィルスを病原体とする感染症の一つである。ヒトに対して非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。天然痘は人類史上初めてにして、唯一根絶に成功した人類に有害な感染症である(2021年現在)。

種痘(しゅとう)とは、天然痘の予防接種のことである。ワクチンをY字型の器具(二又針)に付着させて人の上腕部に刺し、傷を付けて皮内に接種する。1980年に天然痘ウイルスは撲滅され、自然界に存在しないものとされているため、1976年を境に日本では行われていない。

1636年には1人の白人がピクォート族に殺された事がきっかけでピクォート戦争が発生。ピルグリムは容疑者の引き渡しを要求しましたがピクォート族がそれに応じなかったため、ピクォート族の村を襲い、大量虐殺を行いました。

インディアンとピューリタンのあいだには乗り越えがたい文化の壁がありました。インディアンはピューリタンの苦境を救ったのですが、ピューリタンはその返礼に、インディアンの大量虐殺に向かったのです。

社会学者のマックス・ウェーバーは、ピューリタンの排他性を次のように述べています。

たとえば、とくにイギリスのピュウリタニズムの諸著書がしばしば、人間の援助や人間の友情に一切信頼をおかないよう訓戒している堅調な事実にしてもそうだ。穏健なバックスターでさえ、もっとも近しい友人に対しても深い不信感をもつことをすすめ、ベイリーはあからさまに、誰も信頼せず、迷惑のかかるようなことは誰にも言わないのがよい、神だけが信頼するかただ、と説いている。(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)

ウェーバーは資本主義の精神を「吝嗇(けち)の哲学」名付けていますが、アメリカ・インディアンとピューリタンとの文化的な溝の最大のものは、贈与交換と資本主義の精神との差異にあったといえます。

贈与交換とは、互いに贈り物を交換する交易形態をいうものです。贈り物を交換することによって友好関係を獲得するのです。そのような社会では、より多く贈り物をするものが社会的な威信を獲得したのです。インディアンの社会は贈与交換によって成立する社会だったので、異邦人であるピルグリムたちの苦境を救ったのです。

一方のピルグリムたちはプロテスタントでした。プロテスタントは教会に富を積むことを拒否した人たちでした。

カトリックにおいて、教会は地上における天国の入り口とされていました。聖書の教えでは地上に富を積んではならず、富は天国に積むべきだとされていました。そのため地上における天国である教会に富は積まれたのです。

その教会の腐敗を糾弾したプロテスタントは、教会に富を寄進することを止めてしまいました。

教会の権威を否定するために、ピューリタンは僧院におけるような禁欲的な生活を自らに課しました。その結果、富は教会ではなく地上(家庭や企業)に積まれることになりました。その無限に蓄積される富が、無限に富の増殖を続ける資本主義を生み出すことになるのです。

ピューリタンにとってインディアンは嘘つきの怠け者と映うつりました。インディアン社会の多くは母系制をとっていました。家父長制のヨーロッパから来たピューリタンにとってそれは理解のできないことでした。ピューリタンは契約する権限を持たない男性たちと契約を交わし、その契約が守られることがないので、インディアンを嘘つきだと決めつけたのです。

贈与交換は、多くの場合、演説や舞踏を伴うパーティーの形で行われました。ピューリタンにはそれが宴会好きの怠け者と映ったのです。

つまりインディアンたちは、贈与に対して虐殺で返礼するという、自分たちとは対極的な価値観を持つ人々と遭遇することになったのです。

4.     インディアンから白人への土地の移転

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地図の上はアメリカ合衆国独立(1776年)以前のインディアンと白人との保有地の区分(1775年時点)です。黒く塗られたところがインディアンの居住地です。東海岸を除いて、まだアメリカのほとんどの土地がインディアンの居住地として黒く塗られているのがわかります。

地図の下はそれから120年後の1894年のものです。地図はほとんど真っ白になり、インディアン居住区は小さな染みのような点になっています。120年のあいだに、インディアンは住んでいる豊かな土地から追い出され、砂漠の荒蕪地に追いやられるのです。

その荒蕪地さえも、その後のゴールドラッシュ(新しく金が発見された地へ、金脈を探し当てて一攫千金を狙う採掘者が殺到すること)により、白人から奪われることが多かったのです。

なぜインディアンたちは豊かな土地をやすやすと白人たちに譲り渡したのでしょうか。その主な理由を三つあげることができます。

  • 白人からもたらされた疫病による人口の激減
  • アルコールへの免疫のなさ
  • 恒常的な軍隊をもてない文化であったこと

人口激減については既に触れました。アルコールについては、インディアンには本来飲酒の文化がありませんでした。最初の入植者である白人達はインディアンにラム酒を飲ませて酩酊させ、酩酊状態の中で土地の譲渡契約にサインさせる手法をとったのです。

落雷の凧実験で有名なそして「時は金なり」の格言を述べたベンジャミン・フランクリン(1706-1790)は、「ラム酒+野蛮人=0」という数学の公式を述べたとされます。インディアンにラム酒を飲ませると土地がただで手に入るという公式です。

インディアンには恒常的な軍隊を持つという文化がありませんでした。勇猛果敢なインディアンたちは白人との数多くの戦闘で勝利を収めましたが、彼らの軍隊は戦が終わるとすぐに解散しました。インディアンには平和時の酋長と戦時の酋長がいて、戦時の酋長の権限が継続されることはなかったのです。それに反して、白人の軍隊は解散するということがありませんでした。この文化の違いが圧倒的な勝利を白人にもたらせたのです。

5.     WASP(ワスプ)

アメリカ合衆国の社会や文化の特質の核となったのは、WASP(ワスプ)(White Anglo-Saxon Protestant 白人、アングロ・サクソンプロテスタント)たちでした。アングロ・サクソンというのはイギリス系という意味です。この言葉が生まれたのはずっとのちになってからですが、第1回国勢調査(1790)当時、住民の約80%は白人であり、その白人の約61%はイギリス系でした。建国当時から、 WASP中心の生活様式や価値観が支配的だったのです。このため、独立してからもアメリカの文化はなおイギリスの模倣が多かったのです。

19世紀後半以降のカトリック系やユダヤ系の新移民の増加とともに、 WASPという概念が確立されていくことになります。新移民に対して自分たちの優位性を保つためです。 WASPカトリック系やユダヤ系を除く白人という意味でしたので、新移民の黄色人種は当然除外され、先住民のインディアン、アフリカから奴隷として連れてこられた黒人も除外されています。

WASPにはプアホワイト(白人低所得層に対する蔑称)は含まれません。人種差別と階級差別がミックスされて、WASPという概念が形成されているのです。

20世紀に至ってなお、政財界の指導者にはWASP出身者が多く、アメリカ社会の支配層を構成するとみなされてきました。

神格化され厳格であった母親たち

WASPは異民族混在の「醜悪な」都心を避けて郊外へ移住、カントリークラブがブームになり、1929年までに全米に4500ものクラブができました。

カントリークラブ 米国で、都市郊外にあって、テニス・水泳・ゴルフなどの娯楽・保養施設を備えたクラブ。黒人がテニスやゴルフ、スケート、水泳などで頭角を現さなかったのは、これらがクラブ・スポーツだったからだ。タイガー・ウッズでさえ、「この国(アメリカ)には肌の色のため僕がラウンドできないコースがある」(1996年)と発言した。日本では、郊外のゴルフ場の名称に付けることが多い。

上流WASPの家庭は、イギリス・ヴィクトリア朝以上にヴィクトリア朝的でした。

ヴィクトリアニズム (Victorianism) とは、ヴィクトリア朝期の勤勉、禁欲、節制、貞淑などを特徴とする価値観や道徳のこと。19世紀に成長著しかった中流階級の理想を反映し、ピューリタニズムが強く表れている。文学や絵画、彫刻などに強く影響を与えた。行きすぎた厳格さから二重規範ダブルスタンダード)を生み出すこともあり、しばしば上品ぶった、偽善的といったニュアンスを持つこともある。

WASP の母親は女王として家庭に君臨しました。「メイトリアーカル・マザーmatriarchal mother (厳格な母親)として、子どもたちに「ものに動ぜず、自分をコントロールできていること」を求めたのです。

1863年奴隷解放宣言までアメリカ南部は奴隷制でしたが、奴隷制の下でWASPの女性は「サザン・ベル(南部の令嬢)」として神格化されました。白人女性が神格化される分、奴隷の黒人女性は白人男性のレイプの対象とされました。レイプの結果生まれた子は同じ奴隷とされ、白人所有者の財産を増やすことになったのです。

サザン・ベルは道徳心の権化に祭り上げられ、それに反比例して、黒人女性は娼婦の役割を受け持つことになりました。黒人男性による白人女性のレイプを恐れ、白人男性は些細な理由で黒人男性をリンチし、虐殺していったのです。

中世ヨーロッパ的なアメリ

アメリカは中世ヨーロッパ的な社会でもありました。絶対王政の経験のない人々がつくった国だからです。

彼らは中世ヨーロッパの市民や農民と同じく、自警団を持ち、市民が裁判の陪審員となって有罪か無罪を決定します。

アメリカというと新しい土地という印象が強いのですが、ヨーロッパの中世社会から直接にアメリカに文化の伝統がつながっている面があります。ヨーロッパ内部では絶対王政によって大きな変化が生れたのですが、アメリカはその絶対王政を逃れた人びとがつくった国です。

したがってアメリカでは絶対王政の経験がない人たちが国をつくったわけです。たとえばヨーロッパでは一般市民は武装をすることが禁じられておりますし、日本でももちろん禁じられていますが、アメリカではいまでもヨーロッパ中世の伝統を受け継いで、個人が武装することが認められています。ピストルは容易に買えます。許可証がいりますけど、スーパーマーケットでも売っています。(阿部謹也『西洋中世の男と女』)

また中世ヨーロッパと同じく、宗教が生活や精神面に及ぼす影響の強い社会でした。1968年にギャラップ・インターナショナルによって行われた調査の結果によれば、「あなたは天国を信じるか」という問いに、「信じる」と答えたアメリカ人は85%でした。ちなみにイギリス人は54%であり、フランス人は39%でした。

6.     インディアンの清掃

イギリスは農業用の土地を獲得するため、先住民を彼らの土地から根こそぎに「清掃(クリアー)」し、そこにヨーロッパ人移民とアフリカ人奴隷を「移植(プラント=植民する)」、いわゆる「清掃と植民」を基本的政策としました。

イギリスからの独立を果たしたアメリカ(1776年に独立宣言)も、イギリスから「清掃と植民」政策を引き継いだのですが、力の弱まった部族には「文明化」という新形態の清掃政策をはじめ、抵抗する部族には軍事力による征服政策を継続しました。

1830年にインディアン強制移住法が成立し、ミシシッピ川の東側に住むインディアンは、同川以西の地への移住を強制されました。大半の部族は、多くの犠牲を払っていわゆる「涙の旅路」Trail of Tearsをたどり西方に移住しました。

 

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1840年には「マニフェスト・デスティニー」Manifest Destiny(アメリカ大陸への膨張は天命である、との意)の名の下で、テキサス、大平原、オレゴン、カリフォルニアの先住諸部族が新たに「清掃」の対象に加えられました(絵は1872年に描かれた「アメリカの進歩」)。

 

合衆国軍による軍事的征服に対する大平原先住諸部族の武力抵抗は、1870年代にクライマックスを迎えました。しかし軍事力の格差は大きく、1886年に武力抵抗は終わりを告げ、1890年には、スー族に対する女性子どもを含めた無差別虐殺が行われ、インディアンたちは決定的に敗れ去ったのです。

「涙の旅路」

アメリカ政府は先住民族の各部族を属国と規定、インディアン駆逐政策を公式に掲げ、協定の無理強いや武力による実力行使で多くの部族を不毛な地に強制移住させました。

1万7000人が銃を突きつけられ、着のみ着のまま干ばつの地を何百キロも歩かされ、4000人が途中でのたれ死にしたというチェロキー族の「涙の行程」、米軍基地から広まり、10万人のアメリカ・インディアンを死にいたらせたとされる天然痘の流行など、今なら国際世論が黙っていない事実上の民族大量虐殺も平然と行われていたのです。(『太ったインディアンの警告』)

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【図像説明】1830年に「インディアン移住法」が施行され、チェロキー族、チカソー族、チョクトー族、クリーク族 、セミノール族の、5つのインディアン部族が故郷のミシシッピ川の東から根こそぎ追い出され、数十年かけて大陸をほぼ横断させられ、現在のオクラホマ州の東部にあるインディアン準州と呼ばれた場所に徒歩で移住させられた。なかでも最も悪名高い強制移住は、チェロキーの「涙の旅路」(1838年)である。

フロンティア

インディアンが「清掃」された土地に、ヨーロッパからの白人移民が次々と流れ込みました。南部には黒人奴隷がおり、WASPは貴族主義的な生活を送ることができました。中西部のフロンティア(新天地)は、「努力するものが報われる」世界でした。ヨーロッパでの貧困層も、ミドルクラスになることが可能でした。「アメリカンドリーム」の実現です。

フロンティアでは、健康で、勤勉で、頭の回転が速ければ、たいていの場合に成功しました。広い農場を手に入れるという夢を実現すれば、それが自信を生み、楽天的な性格を育て上げます。荒々しくて、それでいて親切で、助け合うようなフロンティア・スピリットが、アメリカ人の性格として19世紀に身についたのです。

開拓者は、人間はすべて善良だと信じました。フロンティアのたいていの州では、選挙権はすべての白人に平等に与えられました。女性の参政権1920年憲法修正で全国的に認められたが、フロンティアではたいていの州がそれよりも先に、男女平等に参政権を認めていました。デモクラシーはフロンティアで育ったのです。

レディファースト

フロンティアでは女性もたくましく働かなければなりませんでした。それにもかかわらずヴィクトリア朝レディというジェンダー観はフロンティアにまで持ち込まれていました。つまり労働をする女性ではなく、家庭の天使である女性像です。

弱い女性を崇拝し庇護するという、騎士道に端を発する「レディファースト」も、ヨーロッパ以上にアメリカで重視されるマナーでした。

イギリスであれ、アメリカであれ、ヴィクトリア朝の女性たちがスズメバチのようなシルエット――張り出した胸と腰、ほっそりした21インチ(約53センチ)くらいのウエストというスタイルを理想とし、こぞってコルセットで腰を締めつけていたことはよく知られている。(…)

1867年アメリカの開拓地生まれのローラ・インガルス・ワイルダーは、少女時代の思い出をもとに書いたシリーズの中の一冊、『大草原の小さな家』(1941)でコルセットをつけ始めたヒロインの悩みを描いている。ローラは14歳。女の子が髪を上げ、長いスカートをはくようになったら、どうしてもコルセットをつけなければならない。彼女は息を深く吸うこともできない鋼鉄のコルセットが苦手だ。従順な長女メアリーは寝ている時もつけているし、母は新婚当時、自分のウエストが夫の片手でつかめたことを自慢し、ローラにも身体を矯正するよう忠告するのだが、ローラはこれが苦痛でならない。(岩田託子、川端有子『図説 英国レディの世界』)

 

寄宿学校によるインディアン同化政策

一方で大量虐殺から生き残ったインディアンは、不毛な地に囲い込まれ、伝統の食源である狩猟・採集や農耕の道を断たれ、アメリカ政府が配給する食糧で飢えをしのぐようになります。

子どもたちは白人社会への同化政策の一環として、インディアン寄宿学校に強制的に収容されます。寄宿学校のスローガンは、「インディアンを殺し、人間として救う」というものでした。

1878年に始まった寄宿学校制度は、アメリカ政府の公式インディアン政策となって全米に広がり、1928年までに全米で500校が開校し、総計10万人の子ども達が送り込まれました。

白人たちの寄宿学校はエリートを育成するためのものでしたが、インディアン寄宿学校は、アメリカ・インディアンの伝統文化を完全に奪い、白人同様の価値観を持ち白人社会に貢献するアメリカ人に変身させることを目的とするものでした。

母族語の使用や伝統の儀式やふるまいは愚鈍で野蛮な行為として堅く禁じられ、それを破れば厳しい体罰で罰せられました。

 

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【図像説明】「カーライル・インディアン工業学校」のインディアン生徒たち、1900年頃。この施設は白人キリスト教徒によって経営され、「保留地」のインディアンの少年少女達を親元から強制的に取り上げ、先祖伝来の宗教、言語を禁止して、「インディアンを殺し、人間を救う」を合言葉に、キリスト教や欧米文化の学習、英語教育などを行っていた。

 

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カナダの「カペル・インディアン寄宿学校」。インディアン生徒の親たちは施設の立ち入りを禁じられ、子供に面会するためには学校の外で野営しなければならなかった(1885年)

努力したものが報われない社会

1928年に義務教育としてのインディアン寄宿学校制度は廃止されましたが、実際には、多くの部族にとっては、インディアン寄宿学校は居住地の近くに移っただけでした。

そこでは以前と同様に部族の言語で話すことも禁止され、軍隊式の体罰や性的、精神的虐待も横行。傷ついて帰れば、すさみきった居住地の現実と世代の断絶が待っていました。

部族政府によるインディアン居住地の自治と州内での治外法権が認められ、宗教、儀式の自由がインディアン社会に戻ったのは、黒人の市民権運動に刺激され、アメリカ・インディアンの権利運動が活発化し、一般アメリカ人の世論も動いた1970年代末になってからのことだったのです。

感受性が強い子ども時代にたたき込まれた劣等感からアメリカ・インディアンとしての民族の誇りを失い、インディアンであることを忘れて白人の社会で生きていこうとした人たちの多くは、万民平等をうたうアメリカ社会が実は偏見と差別に満ちていて、自分たちが成功できるチャンスが少ないことに挫折しました。インディアンにとってアメリカは、「努力したものが報われない社会」だったのです。

こうして、ふたつの世界の狭間で自分の存在価値が見いだせなくなった、喪失の世代が増えていきました。

7.     米軍兵士になって覚えた白人食の味

アメリカ・インディアンの食生活の欧米化を促進することになった大きな要因は、男性の多くが米軍兵として軍隊生活を体験し、そこで慣れた白人食の習慣を居住地に持ち込んだことだといわれています。

一般社会では努力しても報われることのなかったインディアンの若者も、軍隊に入ると別でした。第二次世界大戦(1939-45)では、4万4000人以上の男性が米軍兵となり、めざましい活躍をしたとされます。当時のアメリカ・インディアンの総人口が35万人にすぎなかったことを考えれば、極めて大きな人口比でした。ベトナム戦争(1955-75)に出兵したアメリカ・インディアンの男女も4万2000人を超え、そのうち90%は志願兵でした。

アメリカ・インディアンの米軍への志願率が今でも高い背景には、貧しく荒廃したアメリカ・インディアン社会の現状に目をつけ、「将来役立つ技術が身につき、退役した後に大学に進学し奨学金がもらえる」といった特典を盛んに宣伝して、米軍がアメリカ・インディアンの居住地でのリクルートに力を入れてきたという事情もあります。アメリカン・ドリームへの入り口が軍隊だったのです。(『太ったインディアンの警告』より)

第二次大戦後に始まった、肥満、生活習慣病との闘い

第二次大戦前まではアメリカ・インディアンの社会では皆無に近かった肥満や糖尿病は、50年代、60年代を通じて伝染病のように増え続け、70年代後半には、その蔓延が疑いようのない事実となっていました。

民族別にみた糖尿病発症率では、アメリカ・インディアンは米国の中だけではなく世界の民族中のトップとなっています。

つまり白人社会への同化が進み、自給自足の生活、季節の自然の恵みを生かした伝統食から離れ、現代アメリカの食生活とライフスタイルを踏襲したことが、アメリカ・インディアン社会の悲運の始まりとなったのである。

周囲に腎不全で亡くなる人や失明する人、足や腕の切断を余儀なくされる人々が増えて、初めてアメリカ・インディアンの社会は以前には体験したことがなかった「白人の病気」の恐ろしさを知りました。

同時にアメリカ・インディアンの社会に起こった異変は、肥満や糖尿病の恐ろしさを目に見える形で世界に警告することにもなったのです。(『太ったインディアンの警告』)

8.     米軍基地化と本土返還で悪化した沖縄の人々の食生活と健康

同じ現象は第二次大戦後の沖縄でもみられました。

第二次大戦と敗戦で食糧危機に陥った沖縄の人々が、戦後に米、小麦粉、砂糖、油といった食物配給に頼らざるを得なくなった状況は、アメリカ・インディアンの歴史にも似ています。

沖縄は少しずつ経済復興し、1961年には輸入肉の管制貿易から自由貿易に移行。1950年代、60年代に消費者の購買力増大に呼応して加工肉の缶詰などの輸入も増大、肉など高カロリー、高脂肪の欧米食の摂取量が増えていった過程もアメリカ・インディアンの戦後の歴史に似ています。

そうした食生活の変化に呼応するように、第二次大戦直後には日本本土の子ども達より痩せていた沖縄の子ども達の体重は、70年代には急速に差を縮め、70年代後半には本土平均を上回りました。(…)

こうした栄養摂取の変化が、沖縄の平均寿命を低下させ、肥満率や生活習慣病の発症率を上昇させていったのは、研究者にとっては疑いようがないのです。(『太ったインディアンの警告』)

太ったインディアンの警告は、他人事ではない

アメリカ・インディアンの肥満、生活習慣病増加の背景には、アルコール依存症の蔓延という社会問題もひそんでいます。

肥満率の高さで知られるアリゾナのピマ族の場合など、成人の10人に一人はアルコール依存症の治療カウンセリングを受けています。

連邦インディアン衛生管理局の統計によれば、アメリカ・インディアンがアルコール性肝硬変で死亡する率は全米平均の18倍。アメリカ・インディアンの死因のトップ10のうちの4因は飲酒による事故、慢性肝炎や肝硬変、自殺、他殺となっています。

彼らの間でアルコール依存症が増えたのは、伝統文化が弾圧され、アメリカの白人社会への同化を強いられ、個人として、また部族社会としての自信とプライドを失ったのが大きな要因だったと考えられています。(『太ったインディアンの警告』より)

巨大な米軍基地を抱え、5万人近くの在沖米軍人・軍属・家族と同居する沖縄において、アメリカ・インディアンからの警告は他人事ではありません。アメリカ・インディアンの歴史を含めたアメリカ人と、その家族観を知る必要があるといえるでしょう。

沖縄県基地対策課によると、2011年6月末時点で、在沖米軍人・軍属・家族の人数は4万7300人となっている。

 

【参考文献】

エンカルタ2000

阿部謹也『西洋中世の男と女』(2007年、ちくま学芸文庫

岩田託子、川端有子『図説 英国レディの世界』(2011年、河出書房新社

マックス・ウェーバー大塚久雄訳)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1989年、岩波文庫

越智道雄『ワスプ(WASP)』(1998年、中公新書

猿谷要北米大陸に生きる』(1992年、河出書房新社

エリコ・ロウ『太ったインディアンの警告』(2006年、NHK出版 生活人新書)