アディクションとコミュニティ⑴

 

 

アディクションとは

アディクションaddictionとは、日本語では嗜癖といわれるものです。嗜癖とは、一般的な辞書では「あるものを特に好きこのむ癖」と説明されますが、もう少し厳密にいうと、ある対象(物質、もの、人、行為)に対して「のめり込む」、または「はまる」こと、加えてその「のめり込む」をコントロールできなくなることです。つまり、コントロール不全のために、「好き」「好む」の程度や、その結果としての行為が、常識を逸脱した状態のことをいいます。

アディクションは、以下のように分類されています

 

  1. 物質への依存(ニコチン依存症、摂食障害、薬物依存症、アルコール依存症など)、
  2. 過程への依存(ギャンブル依存症、インターネット依存症、借金依存症など)、
  3. 人間関係・関係への依存(共依存恋愛依存症など)、

 

アディクションは現代の社会構造や家族形態が生み出した病理で、本人の意志では克服することのできない病だとされています。ところがアディクションを病だと捉える見方は、医療関係者も含めて、いまだに一般知識として共有されているとは言いがたい状況にあります。

アディクションが病だと認知されるのは、多くの場合、家庭生活や社会生活の破綻という現実に追い込まれてからです。しかし、そのように病だと認知された場合でも、病因を本人の個人的資質に求める場合が少なくありません。

アルコール依存症の問題を、サイバネティックス[1]の立場から解明しようとした生態学者のグレゴリー・ベイトソンは、アルコール依存症に対する世間の見方を次のように述べています。

 

アルコール依存症の“原因”または“理由”を、アルコールが入っていないときの患者の生活の中に探るべきであるとする考えが、一般の風潮としてある。あの人は───醒めた状態で───“未熟である”“マザコンである”“口愛的である”“同性愛的である”“受動‐攻撃的である”“成功への不安にとりつかれている”“神経過敏である”“プライドが高すぎる”“つきあいが良すぎる”あるいは単に“弱い”、だから酒に溺れた、という言いかたがされる。[2]

 

これは「“自己”なるもののサイバネティックス───アルコール依存症の理論」(1971年)という論文中で述べられたものですが、この文中のアルコール依存症アディクションに置き換えるなら、アディクションの現状に対する、一般の見方だということができるでしょう。つまり患者本人の資質の中に病因があるとする見方です。

この講義では、アディクションの病因を個人の資質に帰すような見解を採ることはありません。そうではなく、アディクションは近代社会にセットされた罠であり、その罠を生み出す母体となったのは、近代家族という家族形態であったという視点に立って、アディクションという病理にアプローチしたいと思います。

 

前述したアディクションの分類に含まれる項目の多くは、本来社会的な価値を有するか、社会的に賞賛を浴びる行為とされるもので形成されています。

たとえば煙草は南北アメリカ大陸を原産とするものですが、インディアンにとって「パイプでタバコを吸う」という行為は、パイプから天上へ立ち昇る煙を通じて「大いなる神秘」と通信し、会話するということを意味していました。ですからパイプは、インディアンの社会の中で、ありとあらゆる決めごとや物事の節目に用いられるものでした。儀式の前にはパイプを天に捧げもって誓いを立て、また和平交渉や取引の際にはこの聖なるパイプが回し飲みされるのです。

天上の「大いなる神秘」とパイプを通じて誓いを立てるわけですから、このときに交わした約束を破ることは絶対に許されないことでした。インディアンたちにとってのパイプは、白人にとっての聖書と同じ意味合いを持っており、インディアンのメディスンマン(呪い師)は必ずパイプを携行しています。パイプは異部族間のパスポートであり、それ自身が和平のしるしだったのです。

ですから喫煙は、本来は天上の「大いなる神秘」と通信し、和平交渉に用いられるという社会的価値を有していたものですが、現代ではアディクションとして扱われます。

もうひとつ例を挙げると、共依存(Co-Dependency)があります。共依存とは、共働で依存しあっている、あるいは従属しあっている関係性をあらわす言葉で、「依存症者の脅しに屈する」「トラブルを肩代わりする」「依存症者の感情を刺激する」「問題を隠す」などという行動により、アディクションを手助けする人たちのことをいいます。つまりアディクションの被害を受けている人たちも、無意識のうちにアディクションを手助けする役割を果たしてしまっているのだということです。それが共依存です。この共依存の関係性は、親しい友人や恋人、情愛に満ちた家族によくみられる関係性です。

友人や恋人、家族を守る上記のような行動やふるまいは、その多くが、かつては社会的に賞賛を浴びる美談とみなされていました。ところが、そのような行動やふるまいが、逆にアディクションを助長する共依存であることが明らかになってきました。かつての美談が、現在では逆にアディクションを助長するだけのものに変わってしまったのです。

アディクションに共通するものは、コミュニティを維持するのに必要とされる、一時的な酩酊状態や競争による興奮状態を招き寄せるものだということができます。つまり本来コミュニティに必要とされた賞賛を浴びるべき行為の多くが、現代社会ではアディクションとされるようになっているということです。

コミュニティに必要とされた行為がアディクションに変換されたとするならば、同じ行為のもたらすものが、個人がコミュニティとのつながりを保っている間は賞賛されるべきものであり、個人がコミュニティとのつながりを喪失した場合には、アディクションとして否定されるということになります。そうすると、ある行為が賞賛されるべき行為であるのかアディクションになるのかという分かれ道には、個人とコミュニティとのかかわりが重要な位置を占めているのだということになります。

アディクションの基となる行為が、コミュニティとつながることによって賞賛され、コミュニティとのつながりを失うことによって否定されるのならば、再びコミュニティとのつながりを見つけ出すことによって、アディクションから解放されるのだということができるでしょう。

ところが、アディクションの病因を個人の資質に求め、アディクションからの解放を個人の意志力に求めるのなら、アディクションから解放されることはないといえるでしょう。アディクションが、個人がコミュニティとのつながりを喪失した場合に発生するものならば、コミュニティへの参加を抜きにして、アディクションの呪縛からの解放はないということになります。

それならばコミュニティと個人とのかかわりを、どう理解し、どのように再構築するかという方向性を探ることができるでしょうか。このことを二回の講義を通して考えてみたいと思います。

 

「自己」なるもの

ベイトソンは、アディクションに苦しむ人の〈酔っている〉状態にエラーがあるのではなく、むしろ〈醒めている〉状態のほうにエラーがあるのであり、〈酔い〉はそのエラーを矯正するものだとします。

 

彼の〈醒め〉のありかたが、飲酒へと彼を追いやるのだとしたら、その〈醒め〉には、なにかしらのエラー(「病」と呼んでもいい)が含まれるはずだ。そのエラーを〈酔い〉が、少なくとも主観的な意味で「修正」しているはずである。つまり間違っているのは彼の〈醒め〉の方であり、〈酔い〉の方は、ある意味で“正しい”ということになる。[3]

 

つまりアディクションに苦しむ人が、繰り返しアディクションに陥るのは、醒めている状態のほうに何らかのエラーが含まれているということです。そのエラーを修正するためにアディクションを繰り返すわけですから、少なくとも本人にとっては、アディクションの状態のほうが「ある意味で“正しい”」のだということになります。

それでは、醒めた状態のどこにエラーがあるのでしょうか。ベイトソンは、アディクションを克服しようとする意志力にこそ問題があるのだとします。

 

依存症の人間をかかえた家族や友人は、「もっと強くなれ」「酒の誘惑に打ち勝て」と叱咤する。これらの言葉が、現実に何を意味するのかは定かでないが、重要なのは、依存者自身が───醒めているあいだは───自分の「弱さ」にこそ「問題」があるのだと、一般に考えている点である。彼は「わが魂の指令官」になれると、少なくともそれがあるべき姿だと信じている。しかし、「最初の一杯」のあとはもう、飲酒を止める動機が完全に消滅してしまうということは、アルコール依存症の常識だ。意識レベルで彼の「自己」は(典型的には)、「ジョン・バーリィコーン」〔アルコールの人格化〕との泥沼の戦いに巻き込まれているのである。(中略)〈醒め〉のみを指揮し、しかも裏切られてばかりいる───これがどうも「指令官」の実の姿であるらしい。[4]

 

醒めた状態では、本人も自分の意志をコントロールできると信じています。しかし「最初の一杯」で、意志はコントロール不能に陥ります。そうであるならば、自分で自分の意志をコントロールできるという、醒めた状態の認識に、エラーが含まれているということになるのです。

 

彼らが認めようとしない、あるいは認めることができないのは、酔っていようが醒めていようが、アルコール依存者の自己の全体が、「アル中パーソナリティ」なのであり、そういう自己が、アル中と「戦う」などということは、それ自体矛盾なのだという点である。[5]

 

ここでエラーの理由が明かされます。それは「自己」のとらえかたです。ベイトソンは「アルコール依存者の自己の全体が、〈アル中パーソナリティ〉」なのだととらえます。この〈アル中パーソナリティ〉をベイトソンは、コントロールを失い暴走する車にたとえます。

 

「底を極めた」アルコール依存者のパニックは、自分がコントロールしていたと思っていた乗り物が、暴走を始めたことを知った人間のパニックである。「ブレーキ」だと思っていたものを踏むと、車はさらにスピードを増す。そのとき人は、「自分プラス車」という、どう見ても自分より大きなシステムの存在を、パニックとともに知るのである。[6]

 

この暴走する車が「自己の全体」なのです。この「自己の全体」に含まれる一部分である「自己」が、「自己の全体」に向かって戦いを挑むこと自体が矛盾する行為だといっているのです。エラーは、この「自己」と「自己の全体」を分ける考え方にあります。ベイトソンは、「自己」と「自己の全体」を分けることはできないことを、さまざまなたとえ話で説明します。

 

きこりが、斧で木を切っている場面を考えよう。斧のそれぞれの一打ちは、前回斧が木につけた切り目によって制御されている。このプロセスの自己修正性(精神性)は、木―目―脳―筋―斧―打―木のシステム全体によってもたらされる。このトータルなシステムこそが、内在的な精神の特性を持つのである。

正確には、次のように表記しなくてはならない。[木にある差異群]―[網膜に生じる差異群]―[脳内の差異群]―[筋肉の差異群]―[斧の動きの差異群]―[木に生じる差異群]……。サーキット[7]を巡り伝わっていくのは、差異の変換体の群れである。その差異のひとつひとつが「観念」───情報のユニット[8]───であるわけだ。

ところが西洋の人間は一般に、木が倒されるシークェンス[9]を、このようなものとは見ず、「自分が木を切った」と考える。そればかりか、“自己”という独立した行為者があって、それが独立した“対象”に、独立した“目的”を持った行為をなすのだと信じさえする。[10]

 

 

西洋的思考のひとつにデカルト的二元論[11]というものがあり、物質的自然の領域と心(あるいはたましい)の経験に関する領域は全く無関係なものとして区別されます。きこりがその立場にたつと、斧で木を切っている場面を、「自分が木を切った」と表現することになります。

ところがベイトソンは、そのような独立した「自己」などありえないとするのです。きこりは斧を振り下ろすかもしれませんが、その斧が振り下ろされる先は、「前回斧が木につけた切り目によって制御されている」のです。つまり自己が対象になんらかの作用を加えると同時に、自己も対象によってコントロールされているということです。そのような相互作用の連続する全体として「自己の全体」が存在するということです。

デカルト的二元論による「自己」のあやうさを、ベイトソンは盲人の杖というたとえで説明します。

 

「自己はどこにあるか」「その境界はどこか」と誰に尋ねても、一様に混乱した答えがきっと返ってくるはずである。あるいは、杖に導かれて歩く盲人を考えても面白い。その人の自己は、どこから始まるのか。杖の先か、柄と皮膚の境か、どこかその中間か。こんな問いは、土台ナンセンスである。この杖は差異が変換されながら伝わってゆく経路の一部分にすぎない。それを横切る境界線は、盲人の動きを決定するシステム全体のサーキットを切断してしまうものだ。[12]

 

「杖に導かれて歩く盲人」にとっての自己なるものの境界線は、どこに引くことができるのかということです。「杖に導かれて歩く盲人」という全体として自己を把握するのでなければ、どこで線を引こうとも、自己というシステム全体のサーキットを切断することになってしまうのです。

アルコール依存者にとっての「酒との戦い」も同じです。「アルコール依存者の自己の全体」に飲酒という行為が含まれますので、飲酒だけを「自己の全体」から切り離すことはできないのです。

 

帰謬法による証明

ベイトソンが主張するのは、精神と物体を分かつ二元論にエラーがあるのであり、アディクションはそのエラーを正すための帰謬法(きびゅうほう)的な証明であるということです。帰謬法は背理法(はいりほう)とも呼ばれ、ある命題が真であることを証明するため、その命題の「結論が偽である」と仮定して推論を進め、矛盾が導かれることを示す方法です。

精神と物体を分かつ二元論的思考のエラーを証明し、なぜアディクションが繰り返されるのかというメカニズムを解明するために、ベイトソンは、前言語的なレベルでの意思伝達方法から、問題を解いていきます。

 

夢のなかでも、動物の相互作用でもそうだが、前言語的レベルでは、それ自身の否定を含む命題(「オレはオマエを噛まない」、「オレはアイツを怖れない」)をストレートに得ることはできない。否定命題を獲得するには、まず「そうでない」とされる肯定形の命題を心に思い浮かべ、あるいは実演してみて、そのうえで、それが理に叶わないことを示していくほかはない。二匹の哺乳動物が「オレはオマエを噛まない」という意思伝達を行なう方法は、試験的な戦闘を―――「戦闘ごっこ」とも呼ばれる、ひとつの「戦闘でないもの」を―――実際やってみることなのである。友好的な挨拶の多くが、“戦闘”的行為から進化してきたことの理由は、そこにある。[13]

 

前言語的なレベルにおいて「噛まない」ことを証明するためには、まず「噛む」ことが必要とされます。その上で「本気じゃない」ことがわかると、「噛む」ことが「戦闘」を意味する行為ではなく、「友好的な挨拶」を意味するものに変化するわけです。

この前言語的な「戦闘ごっこ」は、ベイトソンが1969年に発表した「本能とは何か」という論文の内容を簡略にまとめたものです。ベイトソンのいう帰謬法をよりよく理解するために、その一部を引用します。論文では親子の会話という形で記述されています。Fが父親で、Dが娘です。

 

F 噛まないことを、どうやってしぐさで伝えるか。それは、噛まないんだ。「噛まないことをする」のさ。

D でも、他にだって、していないことはたくさんあるでしょう?寝ることも、食べることも、走ることもしてないかもしれないじゃない。「噛むことはしない」と言うときにはどうするの?

F なにかしらの方法で、「噛む」ということを話題に持ち出さなくてはならない。

D はじめに牙をむくしぐさをして、それで噛まないとか?

F そういうことだね。

D でもそれだと二匹の動物が、お互いに「噛まない」って言い合うときは、両方が牙をむくことになるでしょう?

F そうだね。

D だったら、誤解して、ほんとのケンカになってしまわない?

F そういうこともあるだろうね。自分の動作に対立観念が現われているのに、当の本人が自分のやっていることを認識していないんだったら、そういう危険がいつもついてまわる。

D 牙をむいた動物は、それが「噛まない」ということを相手に伝えるためだって、自分でわかるんじゃないかしら……

F それは疑わしいな。ともかく、相手がどういうつもりでいるかということは、わかりようがない。夢だって、今見ている夢がどういうふうに流れていくのか知ることはできないよ。

D 一種の実験ね。とにかくやってみるの。

F ああ。

D ケンカが必要かどうかを知るために、ケンカするの。

F ただし、それを知ることが目的でケンカするわけではない。ケンカのなかに、というか、ケンカのあとに、自分たちのあるべき関係が現われる、ということかな。そこに「ねらい」はないよ。

D じゃあ、動物たちが牙をむいている、そのときにはまだnotはでてきていないのね。

F いないと思うね。少なくとも、そういう場合がほとんどだろう。親しい友達同士なら、最初から「これは遊びだ」と知って取っくみ合いを始めることもあるかもしれんがね。

D ずいぶんわかってきたみたい。動物の行動にnotはない。なぜならnotは、人間の言葉に含まれるものだから。そしてnotがないから、否定を伝え合うには、帰謬法っていうの?―――否定されることを実演してみなくちゃならない。今の関係がケンカでないことを証明するのに、実際ケンカをしてみるとか、相手が自分を食べないことを証明するのに、食べられる体勢に入ってみるとか……

F うん。[14]

 

 

前言語的なレベルでは、噛まないという意志を伝えるには、まず噛んでみなくちゃならないということになるわけです。アディクションも同じように、アディクションの対象に向かうことにより、アディクションを否定しようとします。しかし結果は逆に出ます。アディクションが否定されるのではなく、アディクションをコントロールしようという意志のほうが否定されるのです。

 

こう考えていくと、アルコール依存者の“プライド”〔オレはできるぞ〕の持つアイロニー[15]が見えてくる。それは、自己をテストに駆り立て、“自己制御”などけっしてうまくいかない、馬鹿げた試みであることを帰謬法によって証明する、精神機構の現われと考えられるのだ。つまり彼の“プライド”は、“It won’t work.”〔自分の力を頼みにしても、うまくいきはしない〕という命題へ当人を導くことを、その隠れた(前言語的レベルでの)目的にしている。この命題は、単純否定を含むものだから、一次過程〔前言語的レベル〕の内部で表現することはできない。まず実際に、ボトルを手にするところから始めるほかはない。彼は想像上の他者である「ボトル」と勇壮な戦いを開始し、それがいつのまにか「友愛の接吻」になっていることを知るのである。[16]

 

帰謬法の命題は、「オレはできるぞ」ではなく、「自分の力を頼みにしても、うまくいきはしない」ということだったのです。それを証明するために「自己をテスト〔飲酒〕に駆り立て」るのです。

 

“自己制御”のテストの結果、当人が必ず飲酒に戻っていくという事実は、この仮説を支えるものである。しかも彼が生きるのは、まわりの人が、寄ってたかって「もっとしっかりしろ、自分をコントロールしろ」という自己制御のエピステモロジー〔認識論〕を押しつけてくる環境なのだ。だとしたら、その、自己制御なるものの無効性を示すアルコール依存者の行動は、「正しい」ということにならないだろうか。依存症に陥っていること自体、世間一般のエピステモロジーの誤りを、身をもって、帰謬法的に、証明していることになるのである。[17]

 

アルコール依存者のまわりの人が、本人に「もっとしっかりしろ、自分をコントロールしろ」といっているのに、アルコール依存者は自分が酒に飲まれていないことを証明するために酒を飲み、酒に溺れます。このメカニズムは、自覚を促がせばアルコール依存が止まる、あるいは本人が反省すれば立ち直るという思い込みが誤りであることを証明するものです。

アディクションとされる行為は、ダブルバインドだということがいえるでしょう。小さな子どもたちが仲間と遊ぶとき、ケンカになることがよくあります。そうしたケンカの繰り返しの中で、子どもたちは仲良くなるのです。それは前言語的レベルでの意思伝達と同じです。噛むことによって噛まないことを伝達するのです。その子ども仲間の関係性は、近代以前のコミュニティにおける人間関係と同じだとみてよいでしょう。

近代以前のコミュニティにおいては、噛むことによって噛まない意思を伝達しました。前々回の講義で触れた、南風原町喜屋武の喧嘩綱も同じです。噛むことによって噛まないという意思は伝達されるのです。ところが個人がコミュニティとのつながりを失うとき、噛むことは危険な行為になります。そのため噛むことは禁じられ、綱引きならば綱を引くだけの競争になります。

ところが競争だけになったとしても、人間は、前言語的レベルにあった信頼関係を忘れることはできません。むしろ、孤立感が増すにつれて信頼関係を求めるようになるでしょう。そのとき、「戦闘ごっこ」が復活します。「想像上の他者である『ボトル』と勇壮な戦いを開始し、それがいつのまにか『友愛の接吻』になっていることを知る」のです。

 

アディクションを生み出す近代家族

ベイトソンアディクションの発生するメカニズムを、精神と対象を分離して考えるという、西洋的思考法に求めました。そのように、精神(心的実体)と対象(物理的実体)とを分離して考える二元論的思考法は、17世紀の西ヨーロッパで発達します。

17世紀の西ヨーロッパでは家族意識が確立され、「家族の肖像画」が大量に製作されるようになります。その家族意識の確立の時期と二元論的思考法の確立の時期は、同時期です。家族意識の確立によって、家族は地域コミュニティからの引きこもりを開始します。それはプライバシーの確立であり、「自己」の確立にもつながります。

このように地域コミュニティから隔離された家族というプライベートな空間の中で、17世紀末に、子ども期としての〈子ども〉が誕生します。かつて子どもは、マクロコスモス(大宇宙)としての異界や他界と、ミクロコスモス(小宇宙)としての人間の世界をつなぐ中間的な存在でした。ところが、子ども期としての〈子ども〉が誕生することにより、子どもは家庭の中に囲い込まれることになります。子どもが家庭に囲い込まれることにより、家族は、マクロコスモスとのつながりが絶たれたのだとみてよいでしょう。

子ども期としての〈子ども〉の誕生に引き続く18世紀には、乳児を農村に里子に出すか、あるいは孤児院に捨てるという習俗が、ブルジョワジーだけではなく、都市のすべての階級に普及するようになります。

そして18世紀末から19世紀にかけて、ロマンティック・ラヴ(恋愛)によって結婚するという習俗が、ブルジョワジーの間で広まっていきます。このロマンティック・ラヴによる結婚の流行と同時期に、女性の財産の継承権や社会的活動が大幅に制約されるようになり、男性は外で働き、女性は家庭を守るというジェンダーが確立されていきます。そのことによって女性は家庭に囲い込まれることになります。その時期に、母性愛が称揚されるようになり、女性には母性愛という〈本能〉が備わっているとみなされるようになります。この女性の家庭への囲い込みと母性愛〈神話〉の確立により、乳児を里子に出したり、孤児院に捨てるという習俗は減少していき、母親の母乳による育児が増加していきます。

そして19世紀には、子ども部屋をもうけることが普及し、19世紀後半には、子ども部屋における「子どもの世界」が誕生することになります。この「子どもの世界」の誕生により、①子ども中心主義、②ロマンティック・ラヴによる結婚、③母性愛、という近代家族の枠組みが完成することになります。

この19世紀後半に、西ヨーロッパのブルジョワジーの家庭で完成した近代家族は、20世紀をかけて民衆化し、日本をはじめとする後発地域の家族モデルとなっていきます。

このような近代家族が形成されていくプロセスは、地域コミュニティや親族ネットワークからの家族の引きこもり現象と対応するものでした。そうすると、かつての地域コミュニティや親族ネットワークにおいて、社会的価値を有し、賞賛を浴びるべきものとされた行為や行動が、アディクションへと反転することになります。

そこに近代社会にセットされた罠があります。その罠を生み出す母体となったのは、近代家族という家族形態であったといえます。

近代家族には地域コミュニティや親族ネットワークから孤立があります。近代家族が完成した19世紀後半のイギリスのヴィクトリア時代(1837‐1901年)の家族像を、イギリスの歴史学者ローレンス・ストーン[18]の『家族・性・結婚の社会史』(1977年)の記述から拾い上げてみましょう。ストーンは、近代家族において女性が社会的に孤立するようになり、存在感が空疎なものになっていったと述べています。

 

妻は、親族との絆が弱まったことによって、以前は夫の下での生活に順応するという困難な仕事や、子育てとか子どもの世話といった難しい仕事に際して利用することができた濃密な外的助力から引き離された。今や彼女は、夫婦喧嘩の際の味方や、深刻な性格の不一致が生じた場合の助言者を他に求めることができなくなった。子守りや教育という負担を共有してくれる親類の人々がいなくなったため、子どもたちがまだ幼いあいだの彼女の生活は、非常に孤立的で退屈なものになった。そして、子どもたちが家を出る頃には、今や彼女の存在感は非常に空疎なものになっており、社会的あるいは経済的な職務というものをなくしてしまっているのである。[19]

 

地域コミュニティや親族ネットワークから孤立することにより、女性にとって育児は「非常に孤立的で退屈なもの」になり、子育ての後「彼女の存在感は非常に空疎なもの」となります。そして「社会的あるいは経済的な職務」を喪失した存在になるのです。

母親の孤立感と空疎感の反動として、家族的な情愛は、「爆発的親密性」と呼ばれるほど濃厚なものになります。ストーンは、近代家族が女性と子どもの抑圧の上に成立すると述べ、近代家族の緊密で濃厚な情緒的結びつきが、「爆発的親密性」であることを指摘しています。

 

しかしながら、中産・下層階級にはヴィクトリア時代風の家族に固有ないくつかの特徴があった。ひとつは、歴史上最初に見られた永続的であると同時に親密でもあった家族類型であった。(中略)こうした永続性のある家族単位の中で、妻と子どもの抑圧と、その道徳的安寧に対する強烈な情緒的および宗教的関心との結びつきが発達した。妻を服従させることと、子どもの性格と自律的な心理的動因を打ち砕くことは、家族の全構成員の情緒生活の全体が、ほとんどもっぱら核家族という境界線内に集められているような状況において生じたことである。こうした家族類型の心理力学(サイコ・ダイナミックス)は、適切にも「爆発的親密性(explosive intimacy)」ということばで言い表わされてきた。[20]

 

孤立感と空疎感に包まれた中での「爆発的親密性」は、アディクションを生み出す母体になるといってもよいでしょう。

「爆発的親密性」の中においては、「戦闘ごっこ」は封印されます。「戦闘ごっこ」が「ケンカのあとに、自分たちのあるべき関係が現われる」ためになされるとするならば、「爆発的親密性」の中における、リアルな「自分たちのあるべき関係」が現われてはならないのです。前々回の講義「母性愛という神話(2)」で触れたように、子どもは母親の真意を理解してはならないのです。その真意は、家庭に囲い込まれた状況での子育てによる、母親の孤立感と空疎感であるからにほかならないからです。

 

 

【参考文献】

ローレンス・ストーン(北本正章訳)『家族・性・結婚の社会史』1977=1991年、勁草書房

グレゴリー・ベイトソン(佐藤良明訳)『精神の生態学』1972=2000年、新思索社

 

脚注

[1] 生物と機械における制御と通信を統一的に認識し、研究する理論の体系。ネガティヴ・フィードバックによる恒常性維持のシステム。社会学者の勝又正直は、エアコンを例にしてサイバネティックスの概念を説明している。たとえば室温24度に設定したエアコンは、設定温度からのずれがあるとそれを打ち消すような働きをすることによって、室温を一定の状態に保つ。このような変化(ずれ)を打ち消すような働きで、しかもその結果が自分に戻ってくるような働きのことを、ネガティヴ・フィードバックという。このようにネガティヴ・フィードバックをつかって自己の安定を維持するようなシステム(まとまり)をサイバネティクス・システムという。この際、重要なのは、相互関係によって形成されるシステムは、この場合、エアコンではなくて、エアコンが置かれた部屋全体がシステムだということだ。

[2] ベイトソン『精神の生態学』422ページ。

[3] 同前423ページ。

[4] 同前424ページ。

[5] 同前425ページ。

[6] 同前446ページ。

[7] 《巡回の意》1 電気回路。回路。2 自動車・オートバイなどの競走用につくられた環状道路。3 劇場・映画館などの興行系統。

[8] 全体を構成する一つ一つの要素。

[9] 連続。連続して起こる順序。

[10] 同前431ページ。

[11] デカルト(1596-1650)は、空間的広がりを持つ思考できない延長実体(いわゆる物質)と、思考することができる空間的広がりを持たない思惟実体(いわゆる心)の二つの実体があるとし、これらが互いに独立して存在しうるものとした。この考えはデカルト二元論と呼ばれ、実体二元論の代表的理論として取り扱われている

[12] 同前432ページ。

[13] 同前441‐442ページ。

[14] 同前109‐110ページ。

[15] 皮肉。逆説。反語法。

[16] 同前442ページ。

[17] 同前442ページ。

[18] ローレンス・ストーン(Lawrence Stone、1919 -1999年)は、イギリスの歴史学者。イギリス近代史、とくに17世紀のイングランド内戦や家族史で知られる。著書として『イギリス革命の原因』『貴族の危機』『大学史』『離婚の社会史』などがある。

[19] ストーン『家族・性・結婚の社会史』581-582ページ。

[20] ストーン前掲書577-578ページ。