アディクションとコミュニティ⑵

 

はじめに

前回の講義では、グレゴリー・ベイトソンの帰謬法という手法を用いて、アディクションの問題を考えてみました。ベイトソンによると、エラーがあるのはアディクションの〈醒め〉の部分であり、〈酔い〉はそのエラーを修正するものだということでした。

〈醒めている〉状態にエラーがあるのだとしたら、〈醒めている〉状態の日常生活にエラーの要因が含まれているのだということになります。つまり、エラーの要因は近代社会という社会形態や近代家族という家族形態に含まれるということになるのです。

近代社会(家族)がなぜアディクションを引き起こすのでしょうか。そのことを改めて考えながら、歴史的に最初にアディクションからの回復に力を与えたとされるアルコホーリクス・アノニマス(Alcoholics Anonymous 以下AA)と呼ばれるセルフヘルプグループ(自助グループ)を取り上げ、なぜAAというコミュニティはアディクションを回復に導くのかを、考えてみたいと思います。

AAとは

AAとは国際的なセルフヘルプグループ(セルフグループ・Self Help Group)です。1935年、米国で誕生しました。AAの誕生については、野口裕二(1996)が的確にまとめているので、それを引用します。

AAの誕生は、ビルとボブの伝説的な出会いに始まる。1935年、ニューヨークの株式仲買人ビルは、仕事でオハイオ州アクロンに赴く。そこで仕事がうまくいかずに、「また飲み出すかもしれない」という不安にかられる。(中略)このとき、彼は「自分を救うために、もうひとりのアルコホリック(Alcoholicアルコール依存症者)にメッセージを運ぶべきだ」と突然悟る。そのもうひとりのアルコホリックが、アクロンの医者ボブだったのである。/ボブはビルとの出会いを次のように述べる。「もっともたいせつなことは、彼がアルコホリズム(Alcoho-lism アルコール依存症)に関連して、自分の話していることを体験によって知っている、これまで私と話した最初の生きた人間だったことである。いいかえれば、彼は私のことばを話したのである」。この出会いがAAの誕生の時とされている。(野口裕二『アルコホリズムの社会学』)

 

ここで重要なことは、「自分を救うために、もうひとりのアルコホリックにメッセージを運ぶべきだ」と悟ったことです。そのメッセージは体験の共有であり、もうひとりのアルコホリックにとっては、「彼は私のことばを話したのである」と受け取られたということです。メッセージは一方的なものではなく、メッセージが伝えられる相手にとっても、自分のことばが他者によって語られるという、個人の壁を超える行為となったのです。

このようにして誕生したAAは歴史的に最初に成功したセルフヘルプグループとなりました。そして現在、130カ国以上に200万人の会員を要する世界的な規模のグループに成長しています。AAの目的はただひとつです。それは飲酒しないで生きることです。その目的を達成するためにAAでは、「12のステップ」という考え方を提示しています。

12のステップの構成は、①自分の無力を認め、②自分を超えたところの絶対的な存在を信じ、③これまでの生活を振り返って自分の短所を見出し、④傷つけた人たちへの罪ほろぼしを考え、⑤仲間に回復の道を示す、の5段階になります。12のステップとは以下の通りです。(原点になった12のステップから多少の言い回しや訳の違いやアディクションの形態によって差異はあります)

 

1 われわれはアルコールに対し無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた。

2 われわれは自分より偉大な力が、われわれを正気に戻してくれると信じるようになった。

3 われわれの意志といのちの方向を変え、自分で理解している神、ハイヤー・パワーの配慮にゆだねる決心をした。

4 捜し求め、恐れることなく、生き方の棚卸表を作った。

5 神に対し、自分自身に対し、もう一人の人間に対し、自分の誤りの正確な本質を認めた。

6 これらの性格上の欠点すべて取り除くことを神にゆだねる心の準備が、完全にできた。

7 自分の短所を変えて下さい、と謙虚に神に求めた。

8 われわれが傷つけたすべての人の表を作り、そのすべての人たちに埋め合わせをする気持ちになった。

9 その人たち、または他の人びとを傷つけない限り、機会あるたびに直接埋め合わせをした。

10 自分の生き方の棚卸しを実行し続け、誤った時は直ちに認めた。

11 自分で理解している神との意識的触れ合いを深めるために、神の意志を知り、それだけを行なっていく力を、祈りと黙想によって求めた。

12 これらのステップを経た結果、霊的に目覚め、この話をアルコール中毒者に伝え、また自分のあらゆることに、この原理を実践するように努力した。(野口前掲書より)

 

AAでは、先行く仲間が、プログラムをスタートして間もない依存症者とペアになって、回復のお手伝いをします。もちろん先行く仲間は回復へのプロセスにある人であり、回復した人です。アディクションの回復とは生き方の修正であり、そのモデルはセルフヘルプグループという、同じ問題を抱えたコミュニティのなかにいる、生身の社会的身体をもった人から得られるのです。そのセルフヘルプグループの仲間が回復のモデルであり、共感を得られる強力なサポーターであるのです。先行く仲間は後輩の回復モデルとなり、先輩をモデルとして回復に向かったアルコール依存症はいずれ、自分自身が後輩の回復モデルとなるわけです。

日本にAAが紹介されたのは1950年ごろで、AAの日本のはじまりは1975年とされています。また日本の断酒会は、AAのデザインを参考にしつつも、日本人の特質に合わせてAAの匿名性や非組織化、献金性といった原則を取り除いて設立させています。

 

近代社会(家族)はなぜアディクションを引き起こすのか

現代の生活は、家族においても社会においても、常に少しだけ成績や評価が良くなることが期待されるという傾向があります。現状でいいとか、多少下降してもかまわないという生き方は、現実はどうであれ、理念としてはもちにくいわけです。つまり常に上昇することが求められているといってもよいでしょう。

たとえば、わたしたちの暮らしぶりを少し振り返るだけでも、この上昇志向ということがあきらかになります。沖縄における民衆の家屋は、明治時代までは穴屋と呼ばれる掘っ立て小屋がほとんどであったとされています。それが茅葺の家になり、瓦屋根の家になり、鉄筋コンクリートの家へと変遷しています。掘っ立て小屋から鉄筋コンクリートまで百年もかかっていないのです。世代にすると三世代から四世代でしょうか。それくらいで家屋は大幅に変更されているのです。

一世代前と比べても、暮らしは間違いなく変貌しています。二世代前と比べると、おそらく想像を絶するくらい変貌を重ねていることがあきらかになるとおもわれます。つまりわたしたちの暮らしは、常に上昇することがあたりまえとなっているのです。

上昇することを前提とする生き方は、近代社会においてあらわれた現象です。近代以前の伝統的な社会においては、暮らしの変貌は感じ取ることのできないほどゆるやかなものでした。むしろ暮らしに変貌がないようにして生きてきたのが、伝統的な社会のありかたでした。昨日と変わらない今日、その繰り返しが伝統的な社会においては、求められてきたのです。

親が職人であればその子も同じ職人になるというふうに、世代が変わっても暮らしぶりに変更がないことが求められた社会だったのです。そのような社会では、現状を維持することが求められてきました。現代の視点からみると、不思議な社会のような感がしますが、逆にみると、上昇することが求められない社会だったということができます。親の職業は間違いなく子どもに伝達され、親と同じ生活水準が子どもにも繰り返されたのです。

それを貧困の状況であるとみるかどうかは、視点の問題になってきます。貧困というのは相対的な問題です。社会全体の生活水準が低ければ、貧困という問題は、本質的には発生し得ない問題なのです。社会全体の生活水準が上がり、貧富の差が生じることになると、貧困という問題が社会的に発生するのです。

かつて社会学者のイヴァン・イリイチ[1]は、冷蔵庫を持たなくとも生活のできるメキシコの農家の生活と、冷蔵庫を持たないと生活ができないニューヨークのスラム街の生活と、どちらが貧困なのであろうか、という問いを立てました。本質的な意味において貧困とは、何かが欠けているという欠落感によって生じるものだといえるのです。

伝統的な社会においては、生活水準が上昇しない代わりに、安定した生活がありました。しかも親と同じことを繰り返すだけという、努力を要しない安定した生活なのです。

伝統的な社会に比べ、近代以降の社会では、常に生活水準が上昇することが求められました。生活水準が上昇するということ、それ自体はよいことに間違いはないのですが、問題となるのは、わたしたちが常に生活水準の上昇を前提にして生きていかざるをえないということです。

たとえば急降下する坂道でブレーキの利かないバスから降りたくとも降りることができない、それが近代以降の生き方の問題であるといえるでしょう。個人による選択とか意志ではなく、乗っているバス自体が急降下(急上昇でもかまいません。いずれでも降りることができないという点では同じです)しているのです。個人による選択とか意志ではなく、常に生活水準が上昇することが求められているのです。

そのためわたしたちは、少しだけ興奮状態にあることを日常化しています。伝統的な社会では、興奮状態はごくたまに、しかし爆発的に起こるものでした。爆発的な興奮状態が、一時的に社会の秩序を転倒させ、カオス(chaos)[2]状態を巻き起こします。

カオス状態のなかで人間は個人を離れ、集団的意識と一体化します。そのような状態は社会にとっても個人にとっても危険な状態なので、あくまでも一時的な爆発的興奮状態として秩序づけるのです。それが祭りなどの原初的なスタイルです。しかしこの危険な状態もまた、人間には必要なことだったのです。

たとえば戦前の那覇の大綱引きは殺気立っており、殺人には至らない程度の流血騒ぎがつきものであったいわれています。これは那覇の大綱引きだけにかぎられる現象ではありません。祭りには常に殺気立つような興奮がつきものだったのです。

あえてこのような危険な状態を演出することは、社会集団を維持するために必要とされたことだといえます。このような殺気によって人びとは、日常生活とはことなる「ハレの日」を現出させることができたのです。「ハレの日」は「聖なる日」です。「聖なる日」は殺気によって原初的な荒々しいエネルギーを、社会集団にもたらすことができるのです。

個人が個人の殻を破って集団と交わるのは、人間社会の課題でした。人間には個人に閉じこもりたいという性向と他人を求めるという性向が、分かちがたく結びついています。この個人の殻を破り社会を成立させる(他人を求める)ために、爆発的な興奮状態が必要とされたのです。

伝統的な社会では、そのような興奮状態は、一定のルールとマナーに基づいて奨励されました。興奮状態が社会の基盤を揺るがすことがあってはならないのですが、興奮状態によって個人と社会との融合関係をもたらさなければならなかったからです。

しかし現代の生活において、爆発的な興奮状態は必要のないものとなりました。その代わりに、かすかな興奮状態を日常的に持続させることになってしまいました。一時的な爆発的な興奮状態が、日常的なかすかな興奮状態に変わったとき、爆発的な興奮状態を起こさせる刺激物や刺激が、日常的に服用されるか、爆発的な興奮状態を、規模を小さくして、個人的に繰り返すようになってしまいました。

アルコール、薬物、ギャンブル、恋愛など、個人の殻を超えて爆発的な興奮状態を惹き起こすのに必要だった刺激物や刺激、感情が、集団の行動としてではなく、個人の行動として日常的に使用され、繰り返されるようになります。伝統的な社会においては、一定のルールとマナーのもとに、興奮状態を作り出す刺激や刺激物、感情は、統制されていたのですが、それが個人的な行動となった場合、集団による統制は効かないものとなります。

爆発的な興奮状態を惹き起こす刺激物や刺激、感情は、個人の殻を破るために必要とされたのですから、当初から個人による抑制は期待できないものでした。なぜならそれらは個人の意志や抑制心を取り除くための刺激であったからです。

このような刺激物や刺激が習慣化したとき、人間はこれらに支配されてしまうことになります。それがアディクションといわれるものです。本来、人間の集団において肯定的な評価を受けていた英雄的な行為が個人化したとき、ポジティブなものはネガティブなものへと反転します。

 

なぜAAというセルフヘルプ・グループはアディクションを回復に導くのか

歴史的に最初にアディクションからの回復に力を与えたのは、AAと呼ばれるセルフヘルプグループ(自助グループ)でした。アルコホーリクスとはアルコール依存症者たちという意味で、アノニマスは「無名の(匿名の)」という意味です。ですからアルコホーリクス・アノニマスとは「無名の(匿名の)アルコール依存症者たち」という意味になります。セルフヘルプグループとは、共通の問題を抱えた者どうしが集まって、支えあっていく集団のことです。その原型は、アルコール依存症者の自助グループAAにあります。

それではAAとは、どのようなセルフヘルプグループなのでしょうか。AAの回復プログラムは、「12のステップ」と呼ばれるものに基づいていますが、「12のステップ」のうち最初の三番目までが重要ですので、最後の12番目のステップとあわせて引用したいと思います。

下記の引用は「日本ダルク」の「NAの12ステップ」からです。アルコールを薬物依存に変えているだけで、視点は同じです。

 

1 われわれは薬物依存に対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた。

2 われわれは自分より偉大な力が、われわれを正気(健康的な生き方)に戻してくれると信じるようになった。

3 われわれの意志と生命を、自分で理解している神、ハイヤー・パワー(higher power)の配慮にゆだねる決心をした。

(中略)

12 これらのステップを経た結果、霊的に目覚め、この話を薬物依存者に伝え、また自分のあらゆることに、この原理を実践するように努力した。[3]

 

日本ダルク代表の近藤恒夫氏の記述を引用しながら、この12ステップへの理解を深めたいと思います。

 

すべて過去形になっていることに注目してほしい。12のステップは、自分がこの段階を実践できたことにあとで気づかされるかたちになっている。[4]

ステップ1の「われわれは薬物依存に対して無力である」というのは、すでに述べた「クスリと闘おうとするな」ということだ。

初めてこのステップ1を聞いたときにはさっぱり意味がわからなかった。「そんなことより、今すぐ覚せい剤をやめる方法を教えてくれ」というのが正直な気持だったし、「オレはそのうち自分の意志の力で覚せい剤をやめてやるんだ」という気負いのようなものもあった。

そのあたりが十分に腑に落ちないまま、とりあえず毎日3回のミーティングには通っていたのだが、相変わらず幻聴、耳鳴りはやまないし、周りの仲間たちに比べても自分の病気がよくなっている実感がさっぱりない。そんな日々が約一年間続いたころ、これではひょっとしたら何年やってもダメかもしれない、というあきらめのような気持がわき上がってきた。同時に、ようやく自分の無力さを認めるということがわかったというのだろうか、現実を認めざるをえない境地に達した。ちょうどそのころから、クスリをやめ続ける精神的苦しさがグッと軽減されるようになった。[5]

 

自分の意志の力ではアディクションをコントロールすることはできないという「あきらめ」の気持が生じたとき、はじめて現実を受け入れることができ、アディクションから解放されることの苦しさが軽減されるようになるのです。

 

ステップ2は「自分以外の力が必要だと信じるようになった」ということだ。私の場合、自分のすべての問題を解決してくれるのはクスリだと信じていた。しかし、病院や拘置所を出たあと、仲間たちの話に耳を傾けているうちに、自分は彼らに助けられていると感じるようになり、仲間たちを信じられるようになった。「回復の95パーセントは仲間たちの話を聞くことによる。信じるという漢字は、“人に言う”と書くでしょう」とロイさん[6]は言っていた。[7]

 

「自分以外の力」とは同じアディクションを共有する仲間です。回復へのプロセスの95パーセントは、「仲間たちを信じ」、「仲間たちの話を聞くこと」によるのです。

ステップ3の「ハイヤー・パワー」と12の「霊的に目覚める」ことについて、近藤氏は次のように説明しています。

 

「霊的に目覚める」の意味はむずかしい。“霊的”は英語の「スピリチュアルspiritual」だ。人間にはボディ(=身体)があって、マインド(=心や思考)があって、さらに奥の芯の部分にスピリット(=魂あるいは自我)という霊的な何かがあるという考え方から来ている。薬物依存から立ち直るには、身体や精神の回復だけではなく、霊的な部分の回復まで必要だということだ。

これら12のステップは、私たちは自分を超える大きな力に助けられ、生かされており、それに自分をゆだねるべきだという考えを前提にしている。その力を「ハイヤー・パワーhigher power」と呼ぶ。[8]

 

精神と物質を分離して考えるデカルト的二元論では、「霊的に目覚める」とか「ハイヤー・パワー」などという概念を理解することはむつかしいでしょう。

ここで前回の講義を思い出して見ましょう。生態学者のグレゴリー・ベイトソンは、木を切るきこりや杖に導かれる盲人のたとえで、精神と物質を分離することはできないことを指摘しました。きこりや盲人にとっての自己は、自己の動きを決定する「システム全体のサーキット」の中にしか存在しないとするのです。

この自己の動きを決定する「システム全体のサーキット」を自覚的に対象化することができるのなら、それは自己という存在を超える「ハイヤー・パワー」ということになり、そのハイヤー・パワーに包まれて動かされている自己、あるいは動いている自己を自覚的に対象化できたときは、「霊的に目覚める」ことになるわけです。

第3回目の講義「子どもという存在(2)」では、近代以前のヨーロッパの宇宙観に少しだけ触れました。近代以前、深い森に包まれて生活していたヨーロッパでは、深い森こそがマクロコスモス(大宇宙)であり、人間の世界はマクロコスモスに包まれたミクロコスモス(小宇宙)として存在するという宇宙観がありました。

子どもという存在は、そのマクロコスモスとミクロコスモスをつなぐ媒介として見られていたのです。このマクロコスモスと人間世界との連続性が断ち切られたときに、〈子ども〉は誕生します。逆に見るなら、17世紀末に〈子ども〉という存在が誕生するまでは、西欧社会においても、マクロコスモスに包まれて人間社会は存在していたといえるのです。

このマクロコスモスを物質世界として分離し、ミクロコスモスだけを拡大したのが近代社会だといえるでしょう。その意味で「ハイヤー・パワー」という言葉は、マクロコスモスの復活を告げる言葉だといえます。

 

近代的自己の解体

AAのプログラムで特徴的なことは、徹底して個人であることを求めるとともに、個人であることにまつわる近代的な意義づけを解体しているということです。近代的自己の解体ということです。

AAのアノニマスという言葉は、「無名/匿名にとどまる」ということを意味しています。「無名/匿名にとどまる」ということは、何をあらわすかというと、名前にまつわる社会的地位を求めないということになります。社会的地位が必要とされないコミュニティにおいては、何が個人をあらわすのかというと、外的な刻印です。

たとえば、タトゥー(刺青)などがそれにあたります。そこではタトゥーが個人をあらわすことになり、タトゥーに表象されたネームで呼ばれることになります。狩猟採集のバンド社会であれ、現代のタトゥーであれ、タトゥーは個人を表象するものであるとともに、本名とは異なるネームであるといえましょう。

タトゥーは外面に刻印され、そのことによって、個人の内面性は表出されます。外面が個人の人格となるのです。そのことによってマクロコスモスとミクロコスモスを隔てていた個人の内面性(近代的自己)は除去されます。外的な刻印によって、自己はマクロコスモスとミクロコスモスと交信し、自己に連続性がもたらされるのです。

アディクションの場合、外的な刻印は、「アディクションである自己」ということになります。AAにおいては、依存症者が「無名/匿名にとどまる」ことにより、「アディクションである自己」という自己を、タトゥーを施すように外的に刻印し外面化します。

そのことは「わたしとは何者か?」という近代的な問いから解放されることを意味します。「わたし」が匿名であるとき、「わたし」は近代的な問いから逃れ、伝統的社会において普遍的にみられた演劇性を獲得することになります。演劇性とは「わたし」の外面化なのです。

たとえばセルヘルプグループでは、「こんにちは、アル中のケンです」と名乗ることからはじめます。そうすると会場からは「ハーイ、ケン」というレスポンスが返り、仲間として受け入れられます。「アル中のケン」は内面性としての「わたし」ではなく、外面性としての「わたし」です。

「わたし」を外面化することで、セルヘルプグループとしてのコミュニティが成立します。コミュニティが成立するとき、マクロコスモスとの連続性が確保されます。マクロコスモスとの連続性にあるとき、ミクロコスモスである人間は、演劇性として自己を認識することになります。それがAAのなかでの「語り」です。

演劇性とは何かというと、外から見られた自分の姿です。それは他人という人間に見られた自分の姿でもありますが、同時に、マクロコスモスから見られた自分の姿でもあるわけです。マクロコスモスから見られた自分の姿があることによって、クオリティの高い演劇性が確立されます。

もし自分の苦悩を語るだけ、あるいは自己賞賛を求めるだけでしたら、演劇性は低いものとなります。マクロコスモスに包まれ、マクロコスモスから見られることによって、演劇性はクオリティの高いものになるのです。

AAの「12のステップ」は祈りの姿勢を強調し、きわめて演劇性の高いものだといえるでしょう。しかしそのような演劇性によって、はじめて近代的自己から解放され、アディクションの呪縛から解放されるのだといえるでしょう。

AAの「12のステップ」では、冒頭に「われわれはアルコールに対し無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた。」という確認から入ります。アディクションに対して無力であることを認めるという自己認識から、回復プログラムは始まるのです。

ここで重要なことは、「認めた」という過去形からスタートすることです。完全なギブアップ宣言です。ここからスタートするのです。ギブアップ宣言の次には、「われわれは自分より偉大な力が、われわれを正気に戻してくれると信じるようになった。」という仲間の力とハイヤー・パワーの肯定があります。

これは、近代的自己の解体だともいえるでしょう。近代的自己は、理性や意志により世界を対象化し、再編成してきました。理性や意志を前提として近代社会は形成されてきたといえるでしょう。しかし理性や意志によるコントロールが効かないものとして、近代社会にアディクションが登場することにより、近代的知の枠組みは解体することになるといってもよいでしょう。

近代的知の枠組みが解体することによって、ハイヤー・パワーという超越的な力が出現するのです。超越的な力というと、イメージしにくいかもしれませんが、近代を除く人類史においては、超越的な力とともにあることが普遍的な形態であったのです。逆に近代という時代だけが、超越的な力を、知的に認めることができない時代であるといえるでしょう。

伝統的な社会においては、個人はそれ自体で完結した世界を構築することなく、マクロコスモスのなかのミクロコスモスとして認識されていました。個人は閉ざされたものではなく、マクロコスモスの一部を構成するものとして考えられていたのです。

近代の知の枠組みは、マクロコスモスとミクロコスモスの連続性を切断することによって成立したととらえることができます。それが理性や意志と呼ばれるものです。この近代的な知の枠組みを解体することによって、マクロコスモスとミクロコスモスは再び連続性を取り戻すことになります。

 

アディクションからの回復

アディクションからの回復には、「底を極める」ことが必要だとされています。「底を極める」までに至る状態を、臨床心理士信田さよ子は、「『コントロール不能になるまでコントロールする』という逆説」と表現しています[9]。信田はアディクションをセルフコントロールという幻想に取り付かれた状態だと見ます。

 

これは他者も自分もそして自分の体も、自分の力で変えることができるという幻想である。それは、変わらなければ自分のコントロールが足りないからだという結論になり、意志の力の不足になる。

その端的な例が摂食障害である。彼女たちは、自分の身体を、食物や食欲をコントロールすることでコントロールしていく。食欲を抑えることで枯れ木のようにやせ細った手足を彼女たちは誇らしげに人目にさらす。それこそが自己の意志の力の勝利なのだ。食欲をコントロールできず醜くふとった世の男女を横目で見て、勝利の快感に浸る。

セルフコントロールの極地はあのような身体である。とすればアルコール依存症もセルフコントロールを果てしなく追い求めて破滅に向かうという点ではまったく同様であろう。[10]

このようにとことんまで飲む、痩せる、というアディクションをきわめることで転機が訪れる。この転換点を「底つき」という。[11]

 

アディクションに浸っている人たちをみていると、あたかも多すぎる選択肢をみずから一つずつ消していっているのではないかと思わされる。身をまかせればどこかに行きつくであろうとやりつづけ、そして究極にいたって生か死かという地点に達する。選ぶことの不安のない地点、それこそが彼らが彼女たちが初めて手にするどうしようもない現実なのだ。それはしかし選択というセルフコントロールを超える地点でもある。その地点をどこかで望んでいたのではないかとさえ思われるのである。[12]

 

この生か死かという選択の余地のないパニック状態である「底つき」が、アディクションからの回復には重要な転換点だと見られています。この底を極めることと回復との関係を、ベイトソンは、ダブルバインド[13]という概念を使って説明しています。

 

「底が極まる」という現象に、AAは非常に大きな価値を与えている。落ちるところまで落ちていないアル中患者は、救われる見込みが少ないとされる。ふたたびアルコールへ戻っていく人間のことを、彼らはよく「まだどん底まで落ちていない」という。(中略)しかし、一度絶望の淵を覗いたくらいでは、何も変わらないのがふつうである。「どん底」でのパニックは、事態好転のきっかけを与えるにすぎないものであって、それを引き起こすものではない。[14]

 

「底つき」はアディクションからの回復に欠かすことのできない重要な要素ではあるが、それは「事態好転のきっかけを与えるにすぎない」とベイトソンはいうのです。この「底つき」を、近代的自己に課せられたダブルバインドだと理解し、異なる答えを出すことが必要とされるとみているのです。

ベイトソンがいうダブルバインドは、答えの出しようのない問いを突きつけられて、その問いを超える答えを出す必要があるということです。説明がむつかしいので、ベイトソンのたとえを一つ引用しましょう。

 

禅の修業において、師は弟子を悟りに導くために、さまざまな手口を使う。そのなかの一つに、こういうのがある。師が弟子の頭上に棒をかざし、厳しい口調でこう言うのだ。「この棒が現実にここにあると言うのなら、これでお前を打つ。この棒が実在しないと言うのなら、お前をこれで打つ。何も言わなければ、これでお前を打つ。」分裂症の人間はたえずこの弟子と同じ状況に身を置いているという感触をわれわれは抱いている。しかし彼は「悟り」とは逆の、「混乱」の方向へと導かれる。禅の修業僧なら、師から棒を奪い取るという策にも出られるだろう。[15]

 

この禅の師は、どちらに答えても「打つ」という問いを出すわけです。そのダブルバインドに対する答えは「師から棒を奪い取る」ということでもあるわけです。答えることができなければ、「分裂症」からの回復を期待することはできませんが、高次の答えを出すことができるのならば、禅でいうところの「悟り」の段階に達することができるわけです。

 

最後に、「どん底」の体験とダブルバインドの体験との複雑な関係について触れておきたい。ビル・Wは、1939年に医師ウィリアム・D・シルクワースから、おまえのアル中はもう直らないと宣告され、そこで「絶望の底」を味わったと書き記している。これはAAの歴史の第一ページとされる出来事である。それについてビル・Wがどう述べているか引用しよう。「〔シルクワース氏は〕われわれアル中患者の強靭な自我に穴を穿つ武器を与えてくれた。われわれの陥った病を描写する彼の言葉には、大きな破壊力が秘められていた。われわれの肉体のアレルギーが狂気と死へわれわれを追いやっている一方で、われわれの精神の強迫観念が飲酒へとわれわれを駆り立てていることを彼は宣告したのである。」ここで医者は、「心」と「体」を分離する患者のエピステモロジー〔認識論〕の上に、強力なダブル・バインドを仕掛けている。この言葉は、患者を繰り返しジレンマに突き返すものだ。もはや自分の意志では何も解決できない―――深く無意識なエピステモロジーが変化するという「霊的経験」を通して、医者の破滅宣告が無効になるのを待つしかない―――という状況に。[16]

 

ここで仕掛けられたダブルバインドは、「おまえはアルコール依存だ」という宣告と、「もう治らない」という宣告です。

つまり「おまえはアルコール依存だから飲み続けるしかない」というバインドがかけられ、「アルコール依存は治しようがないので死ぬしかない」というバインドがかけられるわけです。ビルがこのダブルバインドを解くためには、アルコール依存を治すのではなく、『霊的経験』を通して世界観を変える必要があったわけです。

AAは、このビルの『霊的経験』を歴史の第一ページとします。ダブルバインドを「治療」で解くのではなく、『霊的経験』を通して、新しいコミュニティを形成するという高次な答えで解いていくのです。その高次の解決が、アディクションという意志の病を解くことになるのです。

 

 

【参考文献】

近藤恒夫『拘置所タンポポ』2009年、双葉社

野口裕二『アルコホリズムの社会学』1996年、日本評論社

信田さよ子アディクションアプローチ』1999年、医学書

グレゴリー・ベイトソン(佐藤良明訳)『精神の生態学』1972=2000年、新思索社

 

脚注

[1] イヴァン・イリイチ(1926 - 2002年)は、オーストリア、ウィーン生まれの哲学者、社会評論家、文明批評家である。現代産業社会批判で知られる。著書に『シャドー・ワーク』『ジェンダー』『脱学校の社会』などがある。

[2] ギリシア神話で、宇宙開闢のとき真っ先に生じた「原初の巨大な空隙」のこと。

[3] 近藤恒夫『拘置所タンポポ』162ページ。

[4] 同前163ページ。

[5] 同前163‐164ページ。

[6] ロイ・アッセンハイマー──メリノール宣教会司祭。1938年アメリカ合衆国ペンジルバニア生まれ。1965年来日。布教活動を行う傍ら、1975年札幌市と帯広市アルコール依存症者の回復施設・「メリノール・アルコール・センター」を開設。1985年にダルク開設を支援。近藤氏とともに薬物依存症者の回復支援に尽力。2000年アパリ初代理事長に就任。2005年脳出血で死去。

[7] 同前164‐165ページ。

[8] 同前169‐170ページ。

[9] 信田さよ子アディクションアプローチ』58ページ。

[10] 同前59ページ。

[11] 同前60ページ。

[12] 同前60ページ。

[13] ベイトソンを中心とする研究班が、1956年に発表した分裂病の病因と治療に関する学習理論。(1)ある抜き差しならない関係(典型的には母子)において、(2)第一次の禁止命令(例:「これこれをするな」)と、(3)それと矛盾する、メタレベルの禁止命令(例:「何をしたら怒られるかといちいち考えるな」)の並存が、(4)そのコミュニケーション・パターンの特徴として繰り返し現われるとき、関係の一方に身を置くものが、分裂病的行動を身につけるというもの。したがって、その治療も、創造的・建設的なダブル・バインドの中で遂行されなくてはならないとされる。分裂病の単位を個人ではなく関係(家族のエコロジー)であるとする点と、ユーモアや芸術などを含めて、複数のコンテクストが絡む現象一般を取り込む広さを持っている点、これは単に分裂病の理論というより、そのような問題へ接するさいに必要な、認識論的転換の提唱というべきであろう。(見田宗介、栗原彬、田中義久(編)『社会学事典』弘文堂、1994)

[14] ベイトソン『精神の生態学』444‐445ページ。

[15] 同前296ページ。

[16] 同前447ページ。