ルイス・フロイス著『ヨーロッパ文化と日本文化』をテクストとして

ルイス・フロイス著『ヨーロッパ文化と日本文化』をテクストとして

  1. はじめに

今回は16世紀末に日本を訪れてキリスト教の布教活動をした、ルイス・フロイスの著『ヨーロッパ文化と日本文化』をテクストにして、近代以前の日本とヨーロッパのジェンダーを比較してみたいと思います。

 

 

  1. ルイス・フロイスとその活動した時代

イエズス会[1]宣教師ルイス・フロイス(1532‐1597)は、ポルトガル出身のカトリックの司祭で、35年間日本での布教に努め、長崎で生涯を終えます。その間、当時の日本の社会を細かく観察し、ヨーロッパ文化と比較・対照して記録しました。記録は衣食住、宗教生活、武器武具から演劇・歌謡など多方面に及びます。

フロイスが日本に来たのは1562年のことで、東は石川県、西は長崎県までを含む西日本で布教活動を続け、1597年に長崎で65歳の生涯を終えます。テクストにする『ヨーロッパ文化と日本文化』は、長崎県島原半島の南にあった加津佐町(かづさまち)で、1585年にまとめられたものです。

フロイスが日本に滞在していた時代は、織田信長戦国大名の一人として頭角を現わし始めた時期から、信長の跡を継いだ豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた時期までが含まれます。

天下統一にともない、戦国大名たちが設けた関所での通行税は廃止されるようになり、米などを量る枡の大きさも統一されるようになっていきます。つまりフロイスが滞在していた時代は、日本における商品流通経済が盛んになる時期にあたり、その時期にキリスト教の布教活動も盛んになります。

一方ヨーロッパでは、1517年の宗教改革によって、キリスト教[2]がローマ・カトリックプロテスタントに分裂します。この宗教改革に危機感を抱いたローマ・カトリックは、プロテスタントに対抗して、ヨーロッパ以外にもキリスト教を広める活動が活発になり、布教活動のネットワークを全世界へ広げていきます。フロイスの来日も、ローマ・カトリックの布教活動の一環として行なわれたものです。

  1. 性愛・配偶者選択・離婚について

女性のあり方について日本の社会とヨーロッパの社会とは非常に違うことがフロイスによって指摘されています。たとえばヨーロッパでは未婚の女性が処女であるかどうかが重視されるのに対して、日本ではまったくそれが問題にされません。

ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と貴さは、貞操であり、またその純潔が犯されない貞潔さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても、名誉も失われなければ、結婚もできる。(ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』39ページ)

キリスト教は性愛に対してきわめて禁欲主義的な宗教で、上記の指摘はそのことを反映しているのだといえます。しかしなぜ女性にのみ貞操が求められるのでしょうか。それはヨーロッパがきわめて男性中心主義的な社会であったことを示すものだといえるでしょう。

日本の婚姻習俗においては、武家階級を除いては、貴族から庶民に至るまで、夜這いから結婚に至るというプロセスが一般的でした。武家階級を除く日本の婚姻習俗は、地域や貧富の差によって多少の例外はあったとしても、基本的には、夜這い→通い婚(婿入り)→嫁入りというプロセスを踏むのが一般的でした。

通い婚の時期は長く、嫁ぎ先の主婦(姑)が隠居するか亡くなるまで、つまり主婦の座が明け渡されるまで続きました。そのため通い婚の期間に子どもが二三人できることも珍しいことではありませんでした。

つまり、夜這い、通い婚、嫁入りのいずれのプロセスにおいても、女性の選択決定権の強い婚姻習俗であったのです。それは子育ての合理性が優先されていたのでしょう。民俗学者宮本常一(1907-1981)は、夜這いから結婚に至るプロセスを次のように記録しています。

内海〔瀬戸内海〕の島々では昔は若者宿がよく発達し、また娘宿も見られた。広島県倉橋(くらはし)島では、大正のころまでは男たちが三味線をかついで娘宿へいって、いっしょに三味線をひいてたのしむ風があった。三味線のひけぬ男は座敷へあげてもらえず下足番をさせられたもので、その憂き目を見ないためにも芸事に精出さねばならなかった。(中略)ところが娘たちのなかには何人かの男と交渉を持っているものもあって、いよいよ一人の男と身を固めるというときには、ほかの男たちに対して紺の足袋を贈ったものだそうである。「このたび限り」という意味だそうで、足袋を贈られたものはもうその娘に手をかけてはならなかった。(宮本常一『女の民俗誌』258ページ)

 

 

フロイスによると「ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と貴さは、貞操であり、またその純潔が犯されない貞潔さである」とされるので、ヨーロッパの娘たちは性愛を通しての配偶者選択はできないことになります。つまり配偶者選択を自己決定できるデータが一つ失われている状態だということができます。残るデータは家柄か、親の反対を押し切っての恋愛結婚だけということになります。

ヨーロッパで恋愛結婚が社会的に称揚されるようになるのは、18世紀後半からで、19世紀になってやっと一般化します。18世紀後半までは恋愛結婚は社会的に公認されるものではありませんでしたから、一部の例外を除いて、大方の女性は家柄で配偶者を選択することになります。その家柄に見合うものとしての純潔さが求められたのです。

日本の場合、配偶者選択の決定権は、娘の側にありました。娘たちに性愛の自由が認められていたため、ヨーロッパのように家柄だけで配偶者が決定されることは少なかったのです。

離婚についてもヨーロッパと日本では大きな違いが見られました。フロイスは離婚について次のような比較をしています。

ヨーロッパでは、妻を離別することは、罪悪である上に、最大の不名誉である。日本では意のままに幾人でも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、また結婚もできる。

〔ヨーロッパでは〕汚れた天性に従って、夫が妻を離別するのが普通である。日本では、しばしば妻が夫を離別する。(ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』49ページ)

中世のキリスト教の教義では、神が結び合わせたものは人間が解いてはならないということで、離婚は厳しく禁じられていました。「汚れた天性」というのは、人間は神が自分の姿に似せて作ったものであるにもかかわらず、神の教えを裏切る汚れた存在であるという認識のうえに立っているものです。

それとは逆に日本では、気に添う相手が見つかるまでパートナーチェンジを繰り返すことは、さほど珍しいことではありませんでした。女性のほうから男性を離別することについても同様です。これも宮本から例を見てみましょう。

もとより知り合った仲の結婚だからうまくいくはずだが、未婚時代のつきあいともちがって、男のわがままが出てくることが多い。すると女はさっさと家へ帰ったものである。この場合、貞操というようなことはたいして問題にはしなかったようである。そしてまたよい嫁入り口があればそこへゆく。昭和25(1950)年ごろ、島〔対馬〕できいたうわさ話に、38へん結婚したというばあさんがあったというが、私は18へん結婚したというばあさんに会うことができた。島の北端に近い村でのことであった。83歳になるとかであったが、柔和な、しかし、しっかりした元気なばあさんであった。
「出たのですか、出されたのですか」
ときいたら、
「みんなわたしの方から出て来たのです」
とばあさんはごくあたりまえのことのようにいった。わるい亭主にそうたら女は一生の不幸だという。牛や馬を飼う場合でも、気に入らないものはすぐ売ってしまう。人間だって同じことだ。だからほんとによい男に出会うまでは相手をかえてみることだ。とそのばあさんはいった。(宮本常一『女の民俗誌』51-52ページ)

つまり、現代風にいえば「バツイチ」は当たり前ということです。宮本が対馬をフィールドしたのは1950年ですから、戦後の早い時期まではこのような話を80歳代の女性から聞きだすことができたということになります。

ヨーロッパでは未婚の娘の性愛は禁止され、なおかついったん結婚したら離婚は許されず、女性の側から離婚を言い出すことができなかったのに対して、日本では性愛の経験の上で結婚し、なおかつ離婚も自由に行なわれていたということになります。しかも日本では、「しばしば妻が夫を離別する」(フロイス)のです。

  1. 好きなところへ行く自由

16世紀後半のヨーロッパと日本とでは、女性の社会的位置づけや自由度が、大きく異なっていました。フロイスは次のような観察を記しています。

ヨーロッパでは夫が前、妻が後になって歩く。日本では夫が後、妻が前を歩く。

ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことはきわめて大事なことで、厳格におこなわれる。

日本では娘たちは両親にことわりもしないで一日でも幾日でも、ひとりで好きな所へ出かける。ヨーロッパでは妻は夫の許可が無くては、家から外へ出ない。日本の女性は夫に知らせず、好きなところへ行く自由をもっている。ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』48・50ページ)

中世ヨーロッパ史を研究している歴史家の阿部謹也(1935‐2006)は、中世日本史を研究している網野善彦(1928‐2004)との対談のなかで、「15世紀の末にドイツにおける女性の社会的地位が変わった」と述べています。

16世紀の初頭から、女性は家庭にいるものだという主張が出てくるんです。これは、宗教改革者、神学者、それから人文主義[3]たちが先頭をきるんですが、そのころに諸身分の絵[4]が出てきます。その基本思想は、ツンフト[5]、ギルド[6]には武装することができる人間が加入する、町の防衛に参加する単位ともなっている。女はそれができないから家庭にいるものだというんですね。ルターもそういう考え方をしていますし、それ以後の近代、18世紀、19世紀に至るまで、学者たちのそういう論調が非常に強くなります。(網野善彦阿部謹也『対談 中世の発見』87-88ページ)

 

 

つまりヨーロッパでは、宗教改革(1517年)の前後から女性の社会的地位に変化が起こり、女性は社会の表舞台に立つ存在ではなく、家庭に籠もるべき存在だという主張がなされてくるということです。

フロイスの来日は1562年ですので、すでにその頃のヨーロッパでは、「夫が前、妻が後になって歩く」「妻は夫の許可が無くては、家から外へ出ない」という夫婦像が完成していることがわかります。

阿部の指摘で面白いなと思われるのは、「ツンフト、ギルドには武装することができる人間が加入する」という点です。

ヨーロッパ史を見ると、これらの都市の手工業者、商工業者の中からブルジョワジーが誕生し、18世紀、19世紀の市民革命の中心勢力となります。つまりブルジョワジーが近代的市民のモデルとなるのです。そのブルジョワジーの基になるツンフト、ギルドの段階で、職場からの女性の排除が行なわれているのです。しかも女性を排除する理由が、武装することができないという点にありますから、近代市民社会武装した市民たちをモデルに形成されたということがイメージできます。

16世紀のヨーロッパで誕生したこのようなジェンダー観は、それ以後の近代、18世紀、19世紀に至るまで、強化され続けていくことになります。

一方日本では、女性がそのような拘束を受けることは、ほとんど見られることがなかったようです。宮本は、未婚の娘たちが家出同然にして長い旅に出ていた習俗を聞き取っています。

昔は、若い娘たちはよくにげ出した。父親が何にも知らない間にたいていは母親としめしあわせて、すでに旅へ出ている朋輩をたよって出ていくのである。(宮本常一『忘れられた日本人』115ページ)

 

 

このような習俗は、娘の嫁入り前の修業にあたるものだったようです。宮本は郷里の山口県周防大島で次のような聞き取りをしています。

「はァ、昔にゃァ世間を知らん娘は嫁のもらいてがのうての、あれは竈(かま)の前行儀しか知らんちうて、世間をしておらんとどうしても考えが狭まうなりますけにのう、わしゃ十九の年に四国をまわったことがありました。十八の年に長わずらいをして、やっと元気になったら、四国でもまわったら元気になろうってすすめられて、女の友達三人ほどで出かけた事がありました。(宮本常一『忘れられた日本人』110ページ)

はァ、女の組はわしらばかりでなく、ずいぶんよけいまいておりました。まいているのは豊後〔ぶんご。現在の大分県に含まれる〕の国の者が多うて、わしら道々何ぼ組も豊後の女衆(おなごう)にあいました。つい道連(みちづれ)になって、あんたはどちらでありますかってきいてみると、「豊後の姫島であります」とか豊後のどこそこでありますと言うて、お互いに名乗りおうて、それから二、三日いっしょにあるく。そのうちに何かの都合ではなれて、ほかの組といっしょになるというように……。わしら金も持っておらんので、阿波(あわ)の国と土佐の国の境まであるいて、また戻って来ました。金をもっておらんので船へ乗ることはできませだった。歩く分には宿には困る事はありませだった。どこにも気安うにとめてくれる善根宿(ぜんこんやど)があって、それに春であったから方々からお接待が出て、食うものも十分にありました。お接待というのは親兄弟が死んだようなとき、供養のために、遍路に食うものを持って来て施しをしよりました。(中略)食うものがなくなれば、和讃(わさん)や詠歌(えいか)をあげてもらいものをして、家を出るときは二円じゃったか持って出たのが、戻るときには五円にふえておりましたで」(宮本常一『忘れられた日本人』111-112ページ)

このような遍路だけではなく、嫁入り前の娘は奉公や労働に出て世間を知るのが当然であったとみなされていたようです。そこには貧富の差もなく、豪農の娘であっても町方の商家に奉公に出ていたという例もあったことを宮本は述べています。

フロイスはそのような習俗を目の当たりにし、「日本では娘たちは両親にことわりもしないで一日でも幾日でも、ひとりで好きな所へ出かける」「日本の女性は夫に知らせず、好きなところへ行く自由をもっている」と記したのです。

  1. 女性の経済的自立性

「日本では、しばしば妻が夫を離別する」(フロイス)という女性の立場の強さはどこから出てきたのでしょうか。それは経済的な自立によるものだと思われます。フロイスの記述の中に、日本の女性の経済的自立性の高さをうかがわせるものがあります。

ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸付ける。(ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』48ページ)

 日本では、夫婦の家計はそれぞれ独立したものであり、「時には妻が夫に高利で貸付ける」こともあるということです。歴史家の網野善彦は、これは男性と女性の分業によるものだろうと指摘しています。

農夫に対して蚕婦、男の鍬・鋤に対して、女性の蚕・桑という区分は古代・中世から一貫してあり、繊維産業は女性が完全に掌握していたと思います。(中略)

こうした男性と女性の分業は非常に古くからありました。重要なのは、女性がこのようにして自分でつくった生産物―繭や糸、綿や絹を市場へもっていって、自分で売っている点です。それは江戸時代まで確認できます。糸や綿や絹の商人は、中世では全部女性ですが、これは百姓の女性が広くこうした品物を自分で生産し売買していたことを背景にしています。……このように生産から販売までこの分野はすべて女性が行っていたのです。(網野善彦宮本常一『忘れられた日本人』を読む』84-85ページ)

つまり田畑までが男性の仕事であり、繊維産業は完全に女性が掌握する社会だったということです。女性は自分で商売しますので、男女の会計は、夫婦であっても別個のものとなるのです。

女性は繊維部門については、自分で最初から終わりまで仕切っているのですから、その結果として得られた貨幣は男性にたやすく渡さなかったことは間違いありません。それ故、財布のひもを女性が握っているというのは、単純にただ握っているというのではなく、実際に女性が生産から、流通まで自分で仕切っている分野があり、それを基盤にして動産については財産権を握っていたと考えるべきだと思います。

養蚕や織物だけではありません。男は山に行って薪をとり炭を焼いてきますが、それを売ったのは女性です。いまでも男は夜に漁に出て魚をとってきて、家に帰ると寝ており、そのあいだに女性が魚を加工して売りにいく姿をふつうにみることができます。こう考えると動産―銭は女性が管理するのが当然だったのだと思います。(網野善彦宮本常一『忘れられた日本人』を読む』85-86ページ)

つまり、田んぼや畑、山林、家屋敷などの不動産は男性が管理する社会でしたが、お金などの動産は女性が管理する社会だったということです。

このような男女の分業のあり方は、近年まで本格的な研究の対象とされることはありませんでした。なぜ研究の対象とされなかったのかを、網野は次のように説明しています。

なぜそのことが今まで注目されなかったかについても重大な理由があります。それは公的な世界で税を出しているのはすべて男性ということになっているからです。例えば絹や布は古代の調庸、中世の年貢になっていますが、それを収めたとして、文書や付札(つけふだ)に名前が出てくるのはすべて男性なのです。現在まで伝わっている調庸の絹布の現物に名前が書いてあることがありますが、それも男性の名前になっており、女性の名前は表に出てきません。そのため、養蚕、織物というきわめて重要な分野における女性の社会的な役割が、これまで研究者の視野からぬけおちていたのではないかと思います。(網野善彦宮本常一『忘れられた日本人』を読む』83ページ)

 

 

網野が指摘している点は、納税はすべて男性名でなされていたということです。女性の名前は表に出てこないので、女性の経済活動は無いものとして見落とされていたのです。

法制史学者の高木侃(ただし、1942‐)も江戸時代の養蚕業について同様の指摘をしています。養蚕業が女性を中心に営まれていたにもかかわらず、長野県にあった小諸藩では、「鑑札〔営業許可証〕だけは親・夫あるいは兄弟、つまり男の名前で申請するように」(『三くだり半と縁切寺』)という命令が藩から下されていたのです。

つまり実態はどうであれ、養蚕業の営業許可が下りるのは男性当主に対してであり、文書に残る記録としては男性の名前しか残らないということになるのです。

 

 

フロイスが「時には妻が夫に高利で貸付ける」と記述したのは、建前の家計ではなく、実際に営まれている家計の姿を観察したままに描いたものだといえるでしょう。

近代以前の日本の民衆層においては、女性による動産の管理だけではなく、不動産としての財産継承権においても、大きな男女差はみられなかったようです。宮本の『女の民俗誌』から女性の相続に関する箇所をみてみましょう。

土地によって少しずつのニュアンスの差はあるが、関東北部から奥羽地方にかけては女にも相続の権利のあったことがわかる。女にもというよりは男女の区別がなかったというのが妥当であろう。このような相続形式をさらにくわしく調べてみると、奥羽山脈にそって、その両側の山麓地帯、県にして岩手・秋田・山形・宮城・福島・茨城にわたってかなりひろく分布していたもののようである。一ばん上が女であればかならずあとをとることになるので、この相続形式を姉家督(あねかとく)ともいった。(宮本常一『女の民俗誌』167ページ)

大阪の商家などでは女の子に婿を迎えてあとをとらせる風習はひろく見られた。男の子があっても柔弱で、あとをとらせるには不向きと考えると、男の子の方は別居させて、女にあとをとらせた。婿はその店で番頭などをつとめた律儀な人が多かった。そういうようにすれば財産をつぶすおそれがないと考えた。(中略)

町家ばかりでなく、農村でも財産のあるような家にはそれが見られた。(宮本常一『女の民俗誌』175ページ)

 つまり伝統的な日本社会では、財産の相続権においては男女にそれほど大きな差はなかったということです。相続権についての男女差が少なく、なおかつ動産の管理は女性が中心となりますので、女性の社会的地位はかなり高いものであったということになります。

フロイスが「日本では夫が後、妻が前を歩く」と指摘したように、16世紀末の日本は妻が夫の前を歩く社会であり、宮本による民俗学的フィールドを見る限りにおいては、そのようなジェンダーの位置づけは、近代のある時期まで継続されていたといえるでしょう。

  1. 世間を知る

最後に経済活動と女性の自由度を簡単に比較してみましょう。

阿部は、ヨーロッパでは「16世紀の初頭から、女性は家庭にいるものだという主張が出てくる」と述べています。その経済的背景には、手工業者や商工業者の組合が、女性の組合員を認めなくなるという動きがあります。つまり手工業や商工業などの市場や職場から女性が排除されるのにともなって、「女性は家庭にいるものだ」という主張がなされるようになるということになります。

その同じ16世紀に、フロイスは「ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことはきわめて大事なことで、厳格におこなわれる」といい、「ヨーロッパでは妻は夫の許可が無くては、家から外へ出ない」と述べています。

このようなモラルも、女性が公的な経済活動から排除されることと無関係だということはできないでしょう。公的な経済活動の場から排除されることにともなって、女性を家庭に囲い込むというモラルが確立されるのだということができます。

一方日本では、武家階級を除いて、女性を家庭に囲い込むようなモラルは、確立されることはありませんでした。宮本は「昔は、若い娘たちはよくにげ出した」といいます。そのさい「父親が何にも知らない間にたいていは母親としめしあわせて」いたのです。つまり女性たちは、母から娘に相伝される、男性の知らない長旅のルートを持っていたということになります。

宮本は、明治時代の初め頃に、福井県の北部にある波松(なみまつ)という所に住む女性が、十七、八歳の頃に伊勢参りをした話を聞き出しています。それによると、三人ほどの仲間で、最短コースで伊勢(現在の三重県)に向かったのではなく、若狭湾で製塩を見学し、京都に立ち寄り、滋賀県信楽(しがらき)で焼き物の工程を見学し、それから伊勢へ向かっています。つまり、「伊勢参宮は信仰だけではなく、修業の旅であった」のです(宮本常一『女の民俗誌』94‐96ページ)。

女性たちが商業や産業の担い手であったとすれば、それは産業視察の旅であったということができます。またもう一つの見方をすれば、その旅は彼女たちがこれから携わるであろう商品流通のルートを、事前に確認してきたのだと見ることもできます。つまりビジネス精神に基づく世間を知る旅であったという見方もできるのです。

こうした目的があったからこそ、嫁入り前の娘が長い旅に出る必要があったのだろうと思われます。つまり商品開発や商品流通のルートを熟知していない娘は、結婚しても一人前の経済活動ができないものとみなされたのだろうと思われるのです。

そうであればこそ、「はァ、昔にゃァ世間を知らん娘は嫁のもらいてがのうての」(『忘れられた日本人』)ということになるのだろうと思われます。その長旅を父親には知らせず、母親とだけ示し合わせたということは、それが女性だけのもつ商品流通のルートであったことを暗示しているのではないでしょうか。

  1. まとめに

 1980年代に私たちの歴史を見る眼は大きく変わりました。フロイスの記載した16世紀末の日本の男女の姿は、けっして誇張表現ではなく、ありのままの民衆の姿を先入観なしに描いたのだという確信が持てるようになったのです。

「貞女二夫にまみえず」とか「女三界に家なし(女は幼少のときは親に、嫁に行ってからは夫に、老いては子供に従うものだから、広い世界のどこにも身を落ち着ける場所がない)」などという女性像は、近代以前の日本の家族像の実態に当てはまるものではなく、江戸時代の知識人たちが創り出した言説にすぎないことが明らかにされつつあります。

江戸時代、あるいは近代以前の結婚生活というのは非常に封建的で、女性が強い抑圧をうけていたように思ってしまいがちですが、そうではないのです。むしろ、明治以降のほうが、女性の権利が制限されていた面が大きいといえます。江戸時代までの女性のほうが、社会的に見ても法律的に見ても、実質的には保護されていました。

むしろ近代化によって、西欧の男性中心主義的な社会構造が日本に取り入れられていったのだといえます。近代の西欧は、表面上は女性優位、女性尊重することを習慣化していますが、実際には社会の公的な場では女性が排除され、女性は家庭に囲い込まれるという、非常に男性優位、男権優位の社会となっていました。その西欧の男性中心主義を取り入れて、日本は近代化を果たしたのだといえるのです。

宮本は「共働きの単一家族の世界においては男女同権は、けっして戦後にアメリカから与えられたものではなかった」と述べています。

夫婦共稼ぎの世界はその生活は貧しくともそこには深い相互信頼があり、女が男の権力のまえに屈してのみいるような風景は見られなかった。むしろ男は女に寄りそわれることによってどのような世界をも生きぬくことができたのが、日本の過去の民衆社会ではなかったかと思っている。共働きの単一家族の世界においては男女同権は、けっして戦後にアメリカから与えられたものではなかった。(宮本常一『女の民俗誌』75ページ)

私たちが現在の家族を考えとき、欧米の先進的な家族形態を参考にするとともに、日本の過去の民衆社会を振り返ってみることが必要とされるのではないでしょうか。

 

【参考文献】

網野善彦阿部謹也『対談 中世の発見』(1994年、平凡社ライブラリー
網野善彦宮本常一『忘れられた日本人』を読む』(2003年、岩波現代文庫
高木侃『三くだり半と縁切寺』(1992年、講談社現代新書
ルイス・フロイス(岡田章雄訳注)『ヨーロッパ文化と日本文化』(1991年、岩波文庫
宮本常一『忘れられた日本人』(1984年、岩波文庫
宮本常一『女の民俗誌』(2001年、岩波現代文庫

 

[1] スペイン出身の宗教家イグナティウス=デ=ロヨラが、パリ大学の同窓であったフランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブルらとともに、1534年に結成したカトリックの修道会。1540年にローマ教皇の認可を得た。聖職者の階級制度を取り払い、カトリック修道会の中でも特に厳格な規則を守り通す同修道会は、堕落したカトリック教会の内部改革を推し進め、また結果的に当時盛んだったプロテスタント宗教改革に反する一大勢力ともなった。海外布教にも積極的で、ザビエルを東アジアへと送り込んだことは周知の事実となっている。

[2] ヨーロッパのキリスト教は、1054年に東欧を中心とするギリシャ正教と、北欧、西欧、南欧を中心とするローマ・カトリックに分裂するが、1517年の宗教改革はローマ・カトリックの領域で行なわれ、ローマ・カトリックからプロテスタントが分裂する。

[3] 人文主義者とは、ルネサンス期において、ギリシア・ローマの古典文芸や聖書原典の研究を元に、神や人間の本質を考察した知識人のこと。

[4] ヨスト・アマンの木版画にハンス・ザックスの詩を添えて1568年に出版された《身分と手職の本》(邦訳《西洋職人づくし》)をいう。

[5] ギルドの形態の一。ドイツで、12、3世紀ごろから結成されはじめた独占的、排他的な手工業者の同職組合。手工業ギルド。

[6] 中世・近世ヨーロッパの商工業者の団体をいう。商人ギルドと手工業者ギルドの2種がある。8世紀末からその古い形が存在したが、11世紀以後、都市の発達とともに血縁的・宗教的な団体から商工業者の利益を守る互助的な仲間組織へと変質していった。