江戸時代は離婚率は高かった!その理由は?

江戸時代の離婚率

驚くかもしれませんが、江戸時代の離婚率(人口千対)は2%とか3%などという低い水準の離婚率ではありませんでした。(2021年の日本の離婚率1.5)儒教的モラルの高い武士階級においてさえも、離婚率は10%を超えていたとされています。

江戸時代中期の武士階級の女性の離婚率の高さと再婚率の高さには、女性の持つ財産権の確保がありました。妻が嫁入りのときに持参した持参金は、離婚のさいには妻に返さなければならなかったのです。その財産があったので、離婚しても生活に困るという事態にはならなかったのです。

民衆層においても江戸時代の離婚率は、11%から35%とかなり高い比率を示しています。再婚率も武士階級を上回ります。

婚姻の期間についても現在の婚姻期間とは大幅に異なります。25年続く婚姻生活が全体の2~3%と少数例に属するものであり、多くは婚姻後1年から3年のうちに離婚したというのです。

このようなデータを見る限りにおいて、江戸時代は高離婚率社会であったとみることができます。

離婚率の急激な低下は何をあらわしているのか?

1898(明治31)年に制定された明治民法により、日本における家族意識が急速に変化します。明治民法第801条において「夫は妻の財産を管理す」とされ、夫婦の財産権は女性から奪われます。そして財産の相続も父系嫡男が優先されることとなります。このことにより日本において家父長制が本格的に成立するのです。それがどれほどの衝撃であったかは、下記のグラフをみれば一目瞭然です。

日本の離婚率の推移


このグラフは日本の離婚率の推移をあらわしたものですが、1897(明治30)年から1899(明治32)年にかけて離婚率が急激に低下したことがわかります。

それは2.87%から1.50%へという半減に近いような減少率です。

その後の離婚率は1999年に2%を超えるまでは、1%台で推移します。つまり明治民法の施行によって、離婚率は急激に低下し、日本は低離婚率社会へと移行するのです。

ところで、今日わが国固有の伝統とされていることの多くが、実は明治時代中期ころに作られたものといえる。女性が男性に著しく隷属させられるようになり、「家」意識や男尊女卑がホンネとして強制されたのもこのころからである。江戸時代はむしろ観念としての「家」や「孝」であったものが、民法によって「家」制度が規定され、また親を扶養する義務を跡継ぎに担わせて現実に「孝」を強制させたのである。「貞女(ていじょ)二夫(にふ)にまみえず」式の儒教的婦徳もまた日清・日露戦争をへて、しだいに実効性をもつようになった。(高木侃『三くだり半と縁切寺』)

三行半(みくだりはん)

江戸時代、夫から妻への離縁状の俗称。離縁する旨と、妻の再婚を許可する旨を書いたもの。転じて、離縁すること。江戸時代、夫から妻への離縁状の俗称。離縁する旨と、妻の再婚を許可する旨を書いたもの。転じて、離縁すること。

 

 

三くだり半

 

明治民法は、女性の社会的地位を奪うこととなりました。女性は男性に従属しなければならない存在となったのです。女性の男性への従属が決定的となったとき、儒教のモラルが内面化されます。「貞女(ていじょ)二夫(にふ)にまみえず」とは、貞女は夫が死んだあとも、再婚することはないということです。

離婚率の急激な低下が何をあらわしているかというと、離婚する自由が奪われたということです。その離婚する自由とは経済的自立性に支えられていました。経済的自立性が法的に奪われたとき、女性は離婚する自由を失い、夫に従属せざるを得なくなったということです。

これまで支配的であった言説では、近代以前の日本は家父長の権限が強い社会であり、女性は家父長に従属しなければならない存在であったとされてきましたが、近代になって女性は男性に従属されていったのです。

商品流通の発達と永続する家意識

江戸時代後期に日本では商品流通が発達し、それにともない各地に特産品がつくられるようになっていきます。農業や漁業などの第一次産業に従事する民衆層が、副産物を自分たちで加工して商品化したのです。

このようにして生み出された特産品は、換金商品でしたので、農家や漁民たちに財産を形成させることになります。その財産が家産となります。

また特産品を生み出すノウハウと市場とのつながりは、家ごとに代々継承されることになり、家業を生み出します。その家業家産の継承が、永続する家意識を生み出します。

日本の伝統的家族は男性中心主義というのは誤解である

女性たちが特産品生産の主力となりましたので、特産品生産にともなって発生した永続する家意識は、必ずしも男性中心的な家意識ではなかったのです。

たとえば、上州(群馬県)名物「かかあ天下と空っ風」という言葉がありますが、群馬県は江戸時代後期に養蚕が盛んになり、その養蚕業を担ったのが女性たちであり、家計の主導権を握っていたのです。そのため女性の発言力が強く「かかあ天下」と称されたのです。

日本民族学の創始者である柳田國男は、日本の伝統的な家族が男性中心主義ではなかったことを述べています。

日本の婚姻において、女性が法外に素直であり忍従であったということは、一般の印象かと思われるが誤解である。これは武人という一部の階級に、それも近世に入ってから、やや強調せられていた慣行の名残であって、これを全国の生活を代表するもののごとく、考えたりしたことがそもそものまちがいだった。(柳田國男「婚姻の話」)

 

 

柳田は、日本の伝統的家族が男性中心主義であるという見方は、「誤解である」と言っているのです。なぜ誤解されていたのかというと、日本の永続する家意識がタテマエ上は男性中心主義であったということによるものでしょう。

たとえば養蚕業においては女性が家業の中心であったにもかかわらず、公的な表に出る場では男性の名前で出さざるを得なかったという事情があります。そのことは養蚕業のみでなくあらゆる産業分野にわたったものと推測することができます。そこから「誤解」は生じたのだと思われます。

実際には女性たちによって事業が営まれているにもかかわらず、公的な表に出る場合は男性名で出されたのです。記録上は男性名しか残りませんので、女性が産業の中心的担い手であり、家庭内においても発言力が強かったという歴史は、「視えないもの」になってしまうのです。

(歌川貞孝「養蚕の図」)

養蚕の図 | 秋華洞スタッフブログ

経営体としての家意識

このように江戸時代後期に、どちらかというと女性の高い生産力を機軸としながら家業家産が成立し、永続する家意識が民衆化します。

この永続する家意識は、名目上は男性を当主とします。父系嫡男継承をタテマエとするのですが、家業家産に基づく家意識ですので、基本にあるのは経営体としての家意識ということになります。

経営体ですので、当主は経営能力がなければなりません。ですから当主に経営能力が認められない場合には、当主を若隠居させて次の当主を立てるか、あるいは血縁関係はないが経営能力のあるものを娘婿に迎えて家業を継がせるということも盛んに行われます。

たとえば、大相撲のお相撲部屋では、息子ではなく娘が喜ばれたということです。なぜなら男の子は強い力士に育つかどうかわからないのですが、娘ならば婿を、優秀な弟子の中から部屋の後継者として選ぶことができたからです。

ここらへんが沖縄の位牌継承慣行における家意識と異なる点です。沖縄の位牌継承慣行も永続する家意識ですが、当主の経営能力が問われることはあまりありません。ただ父系嫡男継承の生物学的な血縁関係が問われるだけです。