ナイチンゲールの生きた社会を社会学する

 

世界の主な動きと医学・看護の流れとナイチンゲール

 

1814年 スティーブンソン、蒸気機関車を完成。

1815年 ワーテルローの戦い (ナポレオンが英・蘭・独軍に撃破される)。

1820年 ナイチンゲール、イタリア・フローレンスにて誕生 。

1825年 (英)世界最初の鉄道が開通。

1830年 (仏)七月革命

1836年 フリードナー、看護婦養成所カイザースヴェルト学園創設。

1837年 「ヴィクトリア女王即位(在位~1901)。 モールス、電信を発明。

     2月、ナイチンゲール(17歳)、「神のお召し」を聞く。

1939年 ナイチンゲール(19歳)、ロンドンの社交界にデビュー

1840年 (清)アヘン戦争(~1842)。

1843年 ナイチンゲール(23歳)、ハロウェイ村の貧民小屋で病人の世話をする。

1845年 ナイチンゲール(25歳)求婚を断る。

看護婦としての訓練を受けることの必要性を痛感。家族の猛反対を受ける。

1847年 ゼンメルワイス消毒法の先駆。 スノー、クロロホルム麻酔に使用。

1848年  (仏)二月革命。(独) ウィーン三月革命。ベルリン三月革命

マルクスエンゲルス共産党宣言

ナイチンゲール(27歳)、シドニー・ハーバート夫妻と出会う。

1849年 ナイチンゲール(29歳)、求婚を断る。

1850年 ナイチンゲール(30歳)カイザースヴェルト学園(ドイツ)を訪問。

     (翌年再度訪問。3ヶ月間看護法を学ぶ)

1851年 (英) ロンドンで最初の万国博覧会開催。

1852年 (仏)ナポレオン三世即位。

1853年 (日)米ペリー提督、浦賀に来港。

     ナイチンゲール(33歳)、ロンドンのハーレイ街「淑女病院」の看護監督に着任。実践的能力を発揮。

1854年 (日) 日米和親条約

3月、クリミヤ戦争勃発

    10月、ナイチンゲール(34歳)、クリミヤへ赴任。

    11月、インカーマンの闘い

    12月、4,000人の傷病兵が運び込まれる。

1855年 ナイチンゲール(35歳)、疲労で倒れ、2週間の生死の境をさまよう。

     英国でナイチンゲール基金が創設される。

1856年 クリミヤ戦争終結。帰国。

1857年  (インド) セポイの反乱(反英抵抗の大反乱)

     ナイチンゲール(37歳)、王立衛生委員会発足。過労で倒れ、病臥の生活に入る。

1858年 (日) 日米修好通商条約調印。ウイルヒョウ、『細胞病理学』。

1859年 ダーウィン、『種の起源

    ナイチンゲール(39歳)、『病院覚え書』を出版、『看護覚え書』を出版。

1860年 ナイチンゲール(40歳)、ナイチンゲール看護婦訓練学校開設。

1861年 ナイチンゲール(41歳)、ナイチンゲール助産婦訓練学校開校。  

1862年  (米)南北戦争(~65)

1863年 デュナン、国際救護機関結成を提唱(翌年、 国際赤十字条約成立)。

1865年 メンデル、遺伝の法則を発表。

1867年 リスター、石炭酸殺菌法を公表。

1868年 (日)王政復古(明治改元)。

1873年 (米)ナイチンゲール方式による看護教育始まる。

1878年 コッホ、破傷風を発見。

1880年 パスツールワクチン免疫に成功。

1882年 コッホ、結核を発見。

1885年  (日)有志共立東京病院看護婦教育所発足(我が国近代看護発祥の年)

1894年  北里柴三郎ペスト菌を発見。

1895年  レントゲン、Xを発見。

1898年 キュリー夫妻、ラジウムを発見。

1899年 国際看護婦協会(ICN)設立。

1904年 ICN第一回大会開催。

1910年 ナイチンゲール(90歳)死去。

 

1.              はじめに

ナイチンゲール(1820–1910、イギリス)の生きた時代は、貧富の格差が大きく、女性の職場は少なく、あったとしても低賃金の仕事にありつけるだけでした。医療は往診を中心とするもので、病院は、自宅に医者を呼ぶことのできない貧困層を収容する施設でした。

看護婦といっても現在のような看護師のイメージではありませんでした。1840年代のイギリスでさえ、まだ看護婦の仕事は確立していなかったのです。

看護婦どころか、現在のような病院も存在していませんでした。上流階級の人びとは病気になれば医者が家まできて診察し、家で療養し、亡くなっていました。都市の下層階級の人びとは、家で看病する人がいなければ病院に入ることになるのですが、それは粗末なベッドがぎっしりと並び、風通しが悪く、暖房もない建物で、衛生状態は極端に悪いものでした。つまり病院は、極貧の人が最期に収容されて死を待つところにすぎなかったのです。

看護婦はいましたが、彼女たちは婚外子を産んだり何らかの事情で家を出た人たちであり、病院に住み込んでいました。患者たちはアルコールで憂さを晴らし、娼婦としての看護婦を巡って争っていました。

ナイチンゲールはそのような社会において、病院を改革し、看護師の仕事をアマチュアの仕事からプロフェッション(専門職)の仕事へと高めました。

現在の日本社会は、自己責任論が声高く主張され、急速にナイチンゲールの生きていた時代と同様の格差社会に移行しつつあります。そのような変化の時代だからこそ、ナイチンゲールの活動を振り返り、彼女の警告に耳を傾けねばならないといえます。

2.              二つの国民

フローレンス・ナイチンゲール(1820−1910)が生き、活躍した時代のイギリスは、ジェントルマン(上流階級)と労働者という二つの階級に明確に分かれた二つの国民がいた社会でした。

ナイチンゲールの時代のイギリスでは、上流階級と下層階級(労働者階級)という「二つの国民」のあいだに深い溝が刻まれていました。二つの階級のあいだには、中流階級(ミドルクラス)が存在していましたが、収入面では上流階級に匹敵する上層中流階級と、上層労働者並みの収入しか得られなかった下層中流階級とに分かれていました。そこで、三つの階級は、結局、二つのグループに大きく分断されていたのです。ベビジャミン・ディズレーリ(1804〜81年)という政治家は、若き日に書いた小説『シビル』(1845年)のなかで、この状態を、簡潔につぎのように指摘しています。

「二つの国民。そのあいだには、なんの往来も共感もない。かれらは、あたかも寒帯と熱帯に住むかのように、またまったくべつの遊星人であるかのように、おたがいの習慣、思想、感情を理解しない。それぞれちがったしつけで育てられ、まったくちがった食物を食べている。おたがいにべつのしきたりがあって、同じ法律で統治されてはいないのだ。この富める者と貧しき者」。(長島伸一『ナイチンゲール』)

 

 

産業革命が終わり資本主義が確立した時代

 

いつの世にも貧富の格差というものは存在します。そして私たちは、往々にして、富は勤勉の結果、貧困は怠惰のあかしと考えがちです。こうした「常識」は、はたして正しい認識といえるでしょうか。

ナイチンゲールの時代には、しかし、こうした「常識」が支配していました。労働者の貧困や、都市の不衛生な生活環境は、当の個々人の不節制や不道徳から引きおこされたものであって、かれら自身の人格上の欠陥に由来する――これが当時の社会の支配的な見解でした。そのため、個人の「自由」を尊重すべき社会や国家は、個人の活動に干渉すべきではなく、これを放任すべきだと考えられていたのです。

こうした自由放任主義の主張は、なにも一九世紀にはじまったわけではありません。前世紀にも主張されていました。しかし、一八世紀は、特定の団体や個人の経済活動が国王の手厚い保護をうけ、その網から漏れたグループや個人とのあいだに不平等が生じていた時代でした。したがって、一八世紀に、国家の干渉をきらい経済活動の自由放任をうたうことは、新しい時代を先どりする進歩的立場の表明であったのです。

ところが、自由競争が実現されると、こんどは新たな問題が生まれます。企業間の競争は敗者を倒産に追いやり、倒産は失業を、失業は貧困を生むことがとうぜん予想されます。社会保障制度が整備される以前の時代です。病気や老齢も、貧困にむすびつく可能性があります。しかもそれらは、怠惰や不節制といった個人の責任ではかたづけられません。むしろ、国家が積極的に関与すべき「社会問題」なのです。

したがって、自由競争社会において、貧困や公害や都市衛生環境の悪化などを「社会問題」と意識せず、自由放任主義でよしとする考えは、時代の趨勢を正しくとらえるものではなかったのです。それでも、自由放任は有力な時代精神として生きつづけます。それには理由がありました。

ナイチンゲールの時代は、産業革命が終わり、「資本主義社会」が確立した時代でした。資本主義社会とは、文字どおり、資本(家)が主人公の社会ですから、資本の本性(つまり競争をつうじてより多くの利潤を獲得すること)が、いかんなく発揮されます。たとえば、テムズ河の汚染が、「河の両岸の製作所やタール工場」から排出される廃棄物によることが明らかになったとしても、公害防止に費用を投ずることは利潤を削減することになりますから、資本はそれを放置します。また、国家がそれに干渉することを資本はきらいます。ようするに、自由放任の「自由」は、「資本にとっての自由」を意味していたのです。

この問題はのちにもとりあげますが、ナイチンゲールは、こうしたからくりに、あるていど気づいていました。ここでは、一例だけをあげておきましょう。これも『看護覚え書』の一節です。

「清浄な空気を採り入れるには、住居の構造そのものが、外気が家のすみずみにまで容易に入ってくるようになっていなくてはならない。建築業者たちは、まずぜったいにこのことを考慮しない。かれらが家を建てる目的は、あくまでも投資する資金にたいして最大の利潤をあげることであって、居住者の医療費を節約することではないのである。しかし、もし居住者たちがかしこくなって、不健康な構造の住居に住むことを拒むようにでもによもなれば、......もうけにめざとい建築業者たちは、たちまち正気にもどるであろうに」。 (長島伸一『ナイチンゲール』)

3.              フローレンスという名前

ナイチンゲールは、一八二〇年五月一二日、イギリスの上流階級の家庭に生まれました。父のウィリアムは、ケンブリッジ大学に在学中の二一歳のときに、ばく大な遺産をうけついでいます。(中略)

両親は、一八一八年に、結婚と同時にドーヴァー海峡を渡ります。つまり、ヨーロッパ大陸へ新婚旅行に出かけます。どれほどの期間だと思いますか。一ヵ月などという短い期間ではありません。ほぼ三年間です。一九世紀のイギリスの上流階級とは、働かなくとも一生涯「地代」や「利子」でくらしていける人びとなのです。ひとにぎりのこの上流階級にとって、三年間の新婚旅行は、とくべつめずらしいものではありませんでした。

翌年、イタリアのナポリで娘が生まれます。パースィノープ(愛称パース)と名づけられました。それは出生地のギリシャ名にちなんだものです。本書の主人公フロレンス・ナイ チンゲール(愛称フロー)は、姉の誕生の一年後に生まれています。彼女の名前も、イタリアの生誕地フィレンツェにちなんで名づけられたものです。

二人の姉妹の性格は、成長するにつれてそのちがいをきわだたせました。姉のパースは、陽気で社交好きな気質や、無頓着であきっぽい性格を、主として母親のファニーからゆずりうけたようです。姉と母とが、やがてフローへの干渉で終始手をむすぶことになることからみても、二人の気性には相通ずるものがあったのでしょう。

たいするフローの、几帳面さや、抽象的思考能力、また将来いかんなく発揮される統計好きな気質は、父親ゆずりとみられています。もちろん、ここでも、いいことずくめではなく、彼女の陰気さも父親から、ものごとをおおげさにうけとる性向は母親から、あわせてゆずりうけています。

ところで、彼女が上流階級の出であることは、名前の由来ばかりでなく、少女時代をすごした二つの豪邸にもはっきりしめされています。一つは、両親の新婚旅行直後に、ロンドンより北のダービシャー州に新築されたリハースト荘。それは、丘の上に建つ、見晴らしのよい、一五もの寝室をもつ屋敷でした。しかし、世界地図を見ればわかるように、口ンドンは、北海道よりもずっと北に位置して います。両親は、夏場はリハーストですごすとしても、冬場はもっと南の温暖な地がてきとうと判断しました。

そこで、フローが五歳のとき、もう一つの屋敷が購入されます。ロンドンの南西ハンプシャー州にあるエンブリー荘がそれです。そのふんいきは上の絵からも想像がつくでしょう。この屋敷は、フローが一六歳になったとき、母親の提案で増改築されています。当時の上流階級の習慣にならって娘二人を「社交界入り」させるには手狭である、というのがその理由でした。六つの寝室と新しいキッチンがつけくわえられ、父の書斎の一部がひろげられ、応接間の内装もあらためられ、外観もゴシック風に改装されました。じつは、エンブリー荘の改築中に、ナイチンゲール家の四人は、新婚旅行以来二度目の大陸旅行に出かけています。(中略)

産業革命がもたらしたもの イギリスには、ロンドンに、たとえばマンチェスターリヴァプールグラスゴー、シェフィールド、バーミンガムといった諸都市がありますが、ロンドンをのぞくこれらの都市は、産業革命期に急成長をとげた新興の産業・港湾都市です。産業革命は、綿工業の機械化を中心にして、関連産業をまきこむ大量生産社会をもたらしました。大量生産 がおこなわれるためには、機械設備と工場のほかに、生産にあたる多数の労働者が必要ですが、都市周辺の農業人口が吸いあげられて、これにあたりました。産業革命は、したがて、かつての農業社会を工業社会に変化させたのです。

大量生産された商品が消費者の手にすみやかにとどくためには、輸送手段が整備されていなくてはなりません。したがって、産業革命期はまた交通革命の時代でもあったのです。

道路が改修され、運河も建設されました。しかし、なんといっても大量輸送に大きく貢献のが鉄道と汽船でした。 フローが一〇歳のとき、世界で最初の鉄道がマンチェスターリヴァプールのあいだに開通しました。それからわずか二〇年のあいだに、鉄道網がほぼ完備していますから、このあいだに物資輸送の大変革がもたらされたことも想像がつくでしょう。もちろん、鉄道や蒸気船は、商品の移動ばかりでなく、人の移動にも寄与します。(中略)

産業革命は、社会生活のうえでさまざまな変化をもたらしました。鉄道の普及が旅行のスタイルを変えたことはいうまでもありません。それはまた、「通勤」を可能にしました。 かつては、職場と住宅とが一致しているか、きわめて接近しているのがふつうのことでした。 しかし、工業都市の工場周辺だけでは、労働者の住宅をまかないきれません。鉄道がそれを解決したのです。通勤が可能になると郊外もひろがり、都市圏はますます大きくな リます。産業革命は、機械化・工業化とともに都市化をもたらしたわけです。

工場労動は、かつての熟練のような複雑な作業を不要にします。機械の補助をおこなうような単純な作業なら、子供でもできるようになります。こうして、産業革命は、安い賃金で雇うことのできる児童を、工場のなかに引きいれることになりました。ここにも「資本の本性」がはっきりとあらわれています。(中略 )

もっとも、フローのような上流階級の子供たちは、児童労働とは無縁の世界を享受することができました。父親自身が労働とは無縁なのですから、それもとうぜんです。上流の子弟の教育には、当時、家庭教師をつけるのがふつうでした。父のウィリアムは、二人の娘のために女性家庭教師をさがしますが、適任者が見つからず、結局自らの手で教育する決心をします。フローが一二歳のときです。

父親の教育は、かなりきびしいものだったようです。ギリシャ語やラテン語といった当時の「教養」のほかに、イタリア語、フランス語、ドイツ語、歴史、哲学などを学んでいます。音楽と絵画だけは、とくべつに家庭教師がつきました。

なんというちがいでしょうか。一方は、子供時代からまともに教育をうけられずに労働の現場に身をおかざるをえない階級。他方は、豪邸に住み、申し分のない教育をほどこされ、労働とは無縁の世界に安住できる階級。「二つの国民」に分断された産業革命後の社会では、人は「育ち」によってではなく「生まれ」によって属する階級がきまってしまい、みずからの出自を「教育」や「努力」によっては、容易に変えることができなかったわけです。(長島伸一『ナイチンゲール』)

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4.              クリミヤ戦争

クリミアの悲劇とは、それは、イギリス陸軍に内在する組織的欠陥であり、かずかずの不合理な規則であり、それにがんじがらめにしばられた将校たちの無責任体制だったのです。もはや、看護以前の、あるいは看護をこえる問題というべきでしょう。じっさい、ナイチンゲールは、一八五五年五月 につぎのように記しています。

「戦争の真のおそろしさはなにか。それはちょっとだれにも想像できないでしょう。それはけがでもなければ血でもなく、突発熱や体温低下や急性・慢性の赤痢でもなければ寒冷でも酷暑でも飢えでもありません。それは兵卒においては、アルコール中毒と泥酔による蛮行、道徳の低下と乱脈な生活であり、士官においては、ねたみあいと卑劣な陰謀、無関心と利己的な行動、これらこそが戦争の真のおそろしさなのです」。

(長島伸一『ナイチンゲール』)

 

上流階級の家庭に生まれたナイチンゲールは、高いレベルの教育を受け、また、若い頃から「近代統計学の父」ベルギー人アドルフ=ケトレー(1796年-1874年)を信奉し、数学や統計に強い興味を持ち、優秀な家庭教師について勉強したと言われています。

ナイチンゲールは、イギリス政府によって看護師団のリーダーとしてクリミア戦争(ロシアとトルコの間の戦争で、イギリスはフランスとともにトルコに味方してロシアと戦った)に派遣されると野戦病院で骨身を削って看護活動に励み、病院内の衛生状況を改善することで傷病兵の死亡率を劇的に引き下げました。

 

 彼女は統計に関する知識を存分に使ってイギリス軍の戦死者・傷病者に関する膨大なデータを分析し、彼らの多くが戦闘で受けた傷そのものではなく、傷を負った後の治療や病院の衛生状態が十分でないことが原因で死亡したことを明らかにしたのです。

 

*グラフはクリミヤ戦争における死因分析です。

 

彼女が取りまとめた報告は、統計になじみのうすい国会議員や役人にも分かりやすいように、当時としては珍しかったグラフを用いて、視覚に訴えるプレゼンテーションを工夫しました。今も「鶏のとさか」と呼ばれる円グラフの一種はこの過程で彼女によって考え出されたものです。

ナイチンゲールと「伝説」

ナイチンゲールのことを「クリミアの天使」と か「ランプをもつレディ」という評価は、たしかに一面の真実をふくんでいます。ナイチンゲールは、たしかに、兵士の待遇改善に尽力してきました。

ナイチンゲールにとって、そのような表現は、クリミアの悲劇の実態と地道な苦労を虚像に変える不幸の種だったのです。 スクタリでの任務が終わった一八五六年七月に書かれたつぎのことばが、なによりも雄弁にそのことを語っています。

「かねてから心を痛めてきたことですが、私のこの実験事業に寄せられたはなばなしい声望を聞くにおよび、私はいっそう心を痛めています。この仕事にたいする並はずれた喝采がわれわれのなかに呼び起こした虚栄心と軽挙妄動(けいきょもうどう)とは、この仕事にぬぐい去ることのできない汚点をのこし、おそらくはイギリスではじまった事業のなかでもっとも将来性あるこの事業に、害毒を流しこみました。困難と辛苦と苦闘と無名のなかで、この仕事に着手したわれわれの当初の一行のほうが、ほかのだれにもましてよい仕事をしてきました。

...少数者による静かな着手、地味な労苦、黙々と、そして徐々に向上しようとする努力、これこそが、ひとつの事業がしっかりと根を下ろし成長していくための地盤なのです」。 (長島伸一『ナイチンゲール』)

クリミヤ戦争後、ナイチンゲールは美化された「伝説」に振り回されず、社会改革に打ち込んでいきます。

5.              下層階級を「けだもの」扱いするジェントルマン

ジェントルマンは下層階級の人びとを同じ人間として見ることができませんでした。自分勝手で野卑で肉欲の満足のために生きているとみていたのです。

兵士たちは、戦場でも病院でも、泥酔と乱脈な生活をくりかえしていました。なぜでしょうか。陸軍大臣のパンミュア卿はつぎのように答えています。「大多数の兵は、自分勝手で野卑で、食欲を至上の目的として生き、あたえられるものすべてを肉欲の満足のために費やしてしまうのである。この現実をあらためたいならば、まず英軍兵卒の出身階級そのものをあらためねばなるまい」。

パンミュア卿のこの差別的見解は、しかし、上流階級に属する人びとの多数意見でした。下層階級出身の兵士が飲食にふける理由は?という問いに、それは下層出身だからだ、と答えているのです。答えになっていないことは明らかでしょう。(長島伸一『ナイチンゲール』)

下層階級出身の兵士を「けだもの」扱いする将校もいました。

ナイチンゲールは、クリミヤ戦争中、将校たちから、「あなたはあのけだものたちを甘やかすことになってしまうでしょう」といわれつづけました。「けだもの」とは兵士のことをさしているのです。将校たちは、兵士を戦場で勇猛果敢にたたかわせるためには、かれらを無法者のままに放置しておかねばならないと考えていました。彼女のペンが、はじめて、それを否定したのです。兵士を人間らしくあつかうような制度改革の必要性が、ここにはじめて、書きつけられたのです。(長島伸一『ナイチンゲール』)

下層階級を「けだもの」扱いするジェントルマンたちのなかにあって、ナイチンゲールは、民衆層を「人間」として扱おうとしました。民衆層を人間として遇するという思想が、ナイチンゲールのおこなった衛生改革だったのだといえます。

同じ上流出身でも、ナイチンゲールの考えは、まったくちがっていました。彼女は、たとえば、下層階級の女性が売春に走る理由について、つぎのように述べています。

「イギリスにおいては、女性の労働への道はその数も少なくまた狭く、そして人はあふれている。そのため、ロンドンその他の大都市では公然と身を売って生きている女性もおおぜいいるし、また昼間は労働に従事し夜になると罪を犯すというおぞましい中間地帯をさまよっている女性もおおぜいいる。……職の不足、不十分な賃金、保護と抑制の欠如などが原因となっているのである」。(長島伸一『ナイチンゲール』)

ナイチンゲールの活動した時代、ロンドンの街には娼婦があふれていました。

ロンドンの街には娼婦があふれていたという証言は多い。(中略)『接触感染症法上院特別委員会報告』(1866-67年)は「実態にどれだけ近いかは断言できない」と断りながらも、ロンドンで4万9000人、全国で36万8000人という数字をはじきだした(この数字は生活費の全部ではなく一部を稼ぐ者も含んでいる)。1841年のロンドンの15歳から50歳までの女性の人口は59万6000人だから、その8%が売春をしていたことになる。(中略)

ロンドンの特徴は広大な貧困層を内部に抱えこんでいたことだ。(中略)

ヴィクトリア時代の売春の一特徴は、貧しい女性たちのアマチュアリズムである。ちなみにスロップ・ワークと呼ばれた洋服産業にたずさわる女性は、一日14時間労働はざら、シャツを一ダース縫っても稼ぎはやっと4シリング6ペンスという低賃金だった。

(度会好一『ヴィクトリア朝の性と結婚』)

 

 

ナイチンゲールは下層階級の女性に娼婦が多いのは、モラルが低いからではなく、女性の就くことのできる仕事が少なく、あったとしても低賃金労働であったからだと指摘しています。

ナイチンゲールの時代に、尊敬されるべき女性の職業は限られたものでした。ミドルクラスの女性の就くガヴァネス(女性家庭教師)くらいしかなかったのです。

ガヴァネスというのは、上流家庭に住みこんで女児の家庭教育全般を担当していた女性たちのことです。出身は中流階級の中層または下層にぞくするのがふつうでした。なぜなら、中流階級の上層以上の女性は働く必要がなかったし、下層階級の女性はほとんど教育をうける機会がなかったからです。(長島伸一『ナイチンゲール』)

6.              看護婦の泥酔と不道徳

ナイチンゲールは上流階級の出身でした。ナイチンゲールは看護婦を志します。それは当時の上流階級の常識に反するものでした。当時、看護婦という職業は、下層階級の無教養な人々が就く仕事だと考えられており、娼婦、アルコール中毒者などがたずさわっているのが実情でした。そのため、上流階級のレディが就くような仕事ではなかったのです。

1858年に出版された『女性による陸軍病院の看護』のなかには、つぎのような指摘がみられます。「看護婦は、注意深く、能率的で、しばしば上品であり、つねに親切であるが、ときとしては酔っぱらいだったり、身持ちが悪かったりする」と。「ときとしては」という表現は、「ほとんどつねに」といいかえたほうが正確なほどでした。

当時の病院では、ジンやブランデーなどが病棟にもちこまれることもめずらしくなく、それは患者ばかりでなく看護婦にも共通していたからです。また、男子病棟の看護婦が男子の病室に寝泊まりすることすら公然とおこなわれていました。信じられないことかもしれませんが、看護婦の泥酔と不道徳は、当時の「常識」だったのです。(長島伸一『ナイチンゲール』)

このような状況は病院自体も同じでした。ナイチンゲールが活動するまでの医療は、医者による家庭への往診が主流であり、医者の往診を頼めるのは上流、中流の家庭に限られていました。病院は医者の往診が頼めないような下層階級の人々が収容される場所だったのです。

19世紀なかごろの病院は、不潔と不道徳のはびこる温床地帯でした。『病院覚え書』には、当時の病院の状況が手にとるように描かれています。たとえば、「床や壁には有機物がしみこみ、わずかな湿り気さえあれば有毒な臭気を発散する。そこで、床を洗うとせっけんと水以外の臭いが出てくるわけで、いくつかの病院でよごれた床を洗ったら〔患者の患部の膚が赤くはれ、激痛をともなう〕丹毒が発生した」といった指摘がそれです。また、「わが国のある民間病院で、看護婦が五人、つづけざまに熱病にかかって死亡しているが、それはその病院の排水設備に欠陥があったためである」とも記されています。

『看護覚え書』のなかには、「住居を健康に保つには、つぎの五つの基本的な要点がある」として「清浄な空気、清浄な水、適切な排水、清潔、陽光」があげられています。しかし、右の指摘から判断すると、これら五つの要素は、当時の病室では十分にかなえられていなかったということになります。

(長島伸一『ナイチンゲール』)

7.              専門職としての看護師

ナイチンゲールは看護婦をプロフェッションという専門職にしようとしました。プロフェッションと呼ばれる専門職はジェントルマン階級が独占するものでした。ナイチンゲールは看護婦をそのような専門職に位置づけようとしたのです。

 

1893年に米国でつくられた「ナイチンゲール誓詞(せいし)」では、プロフェッションという言葉が二度使われています。

 

Florence Nightingale Pledge: I solemnly pledge myself before God and in the presence of this assembly,
to pass my life in purity and to practice my profession faithfully.

I will abstain from whatever is deleterious and mischievous,
and will not take or knowingly administer any harmful drug.

I will do all in my power to maintain and elevate the standard of my profession
and will hold in confidence all personal matters committed to my keeping and 
all family affairs coming to my knowledge in the practice of my calling.

With loyalty will I endeavor to aid the physician in his work,
and devote myself to the welfare of those committed to my care.

 

ナイチンゲール誓詞》

私は、私の生涯を清く過ごし私の専門職を忠実に行うことを、ここに集う人々の面前で、厳かに神に誓います。 
私は、どんなものも毒あるもの害あるものは一切絶ち、有害な薬はどんなものも用いることなく、また、知っていながらこれを人に与えることは致しません。 
私は、私の専門職の水準を維持し、高めることに全力で努めます。私は、任務に当たって私が取り扱った人々の個人的な情報のすべて、職業上知り得た一家の私的事情のすべてを、人に漏らすことは致しません。 
私は、誠実に仕事上の医師を助け、私の手に託された人々の幸せのために身を捧げます。

(プロフェッションを専門職とした訳)

 

ナイチンゲールは『看護覚え書』(1859年)のなかの「英国で看護師として雇われている女性の数についての所見」で、看護師をアマチュアからプロフェッションに移行するよう提言しています。

 

1851年度の国勢調査によると、英国の職業看護師は2万5466人、個人の家庭で看護・保育にあたっている者は3万9139人、助産婦は2822人でした。

このうち家庭で看護・保育にあたっている者はその半数が5〜20歳の年齢層で、職業看護師はその半数が60歳以上です。

この人たちの効率をよくして、できるだけ多くの人に健康の本当の意味を普及させる役割を果たしてもらうことが、「国家としての大きな事業」であると言えるでしょう。

(茨木保『ナイチンゲール伝:図説 看護覚え書とともに』)

 

 

家庭で看護・保育にあたっている者の半数は未成年でした。職業看護師の半数は60歳以上でした。ナイチンゲールの生きた時代の英国の平均寿命は40歳台でしたから、60歳は高齢者にあたります。つまり看護にあたるべき人びとの半数が、未成年者や高齢者で占められていたということです。

ナイチンゲールからすると、それらの人びとはプロフェッションではなくアマチュアということになります。

彼女は、「看護は最上級の芸術のひとつである」と述べています。そして、「芸術なり看護なりにおけるしろうと(アマチュア)というものが、なぐさみのためにそれをする人びとをさすのであれば、それはもはや芸術などではないし看護でもない」と指摘しています。つまり、プロの芸術や看護しか認めていません。(長島伸一『ナイチンゲール』)

マチュアであるかぎり、それは看護とは呼べないとナイチンゲールは主張しているのです。ナイチンゲールの尽力により、「無知で飲んだくれでふしだらな女」という看護婦にまつわる通念が一掃され、プロフェッションとしての看護師像が確立されることになります。

8.              大英帝国であったイギリス

ナイチンゲールの生きた時代のイギリスは貧富の格差が極端にまで開いた社会でした。それは国が貧しかったからではありません。その当時のイギリスはヴィクトリア朝時代と呼ばれ、繁栄を遂げた社会でした。

 

ヴィクトリア朝時代というのはヴィクトリア女王(1819−1901)が君臨した時代(1837−1901)を指すものです。

ヴィクトリア朝時代のイギリスは大英帝国と呼ばれ、世界を一周するほどの広大な植民地を持ち、「日の沈まぬ帝国」と言われました。

 

イギリスはヨーロッパの片隅にある島国でしたが、二つの三角貿易によって世界最強の帝国に成長していきます。

一つ目の三角貿易は、17~18世紀に展開されたイギリスなどによる大西洋での貿易。アフリカから黒人奴隷をアメリカ新大陸・西インド諸島に運び、そこからヨーロッパにタバコや綿花、砂糖などを運んだものです。とくにイギリスは三角貿易で得た富を資本として1760年代から始まる産業革命を推進する財源としました。

 

 

二つ目の三角貿易は、19世紀にインドのアヘンと中国の茶を結びつけるものでした。18世紀あたりからイギリスではお茶が好まれるようになり、イギリス人の紅茶愛好がスタートします。紅茶の原料になるお茶は中国から輸入しました。ところがイギリスから中国に輸出するものはなく、輸入超過の状態になってしまいました。そこで植民地であったインドでアヘンを製造し、それを中国に売りつけたのです。

この二つの三角貿易によってイギリスは巨大な富を蓄積し、19世紀には世界最大の帝国になります。イギリス人は紅茶好きだとされていますが、そのような紅茶愛好文化は、西インド諸島から運ばれてくる砂糖と中国から運ばれてくる(後にはインドでも栽培されるようになる)お茶によって成立したものです。

このように19世紀のイギリスは、アジア、アフリカ、北米の西インド諸島などの植民地から膨大な富を吸い上げます。ところが、そのような富が国民全体に行き渡ったのかというと、そういうわけでもありません。国内では労働者階級を搾取し、老若男女を問わない長時間の低賃金労働に労働者を縛り付け、悲惨な社会状況をつくり出してしまいます。

つまり海外の植民地からの搾取と国内の労働者からの搾取によって、イギリスは大英帝国として世界最強の国家になるのです。それがヴィクトリア朝時代と呼ばれるイギリスの社会状況です。

 

9.              階級社会を生み出した自由放任主義

イギリスが経済的な繁栄を遂げながら大量貧困層を生み出したのは、政治経済における自由放任主義によるものでした。自由放任主義というのは、現代でいえば規制緩和・民営化であり、貧困者に対する自己責任論ということになります。

そこにはナショナル・ミニマムという概念がまだ成立していません。そのため弱肉強食の自由競争の社会となります。貧困な者を自由競争のスタートラインにつけるための社会保障が整備されていないので、莫大な数の貧困層を生み出してしまいます。

 

ナショナル・ミニマム(national minimum)とは、国家(政府)が国民に対して保障する生活の最低限度(最低水準)のことである。イギリスのウェッブ夫妻が『産業民主制論』(1897)で提唱した。「最低賃金」、「労働時間の上限」、「衛生・安全基準」、「義務教育」の4項目からなる。

 

ナイチンゲールは1876年4月に『タイムズ』紙に掲載された論文で、自由放任主義を厳しく批判しています。

 

「たとえある施設が『〈貧富両者〉に向けた熟練看護婦の提供』をしはじめようとしても、とくにそれで『採算のとれる』ようにしようと思えば、結局は『富める者』のみのための『熟練看護婦の提供』ということになってしまうだろう。つまり、その施設が『採算のとれる』ことをたてまえとしていれば、いいかえれば、看護婦がその施設を『支える』のであれば、『富める者』がまずやってくるにちがいない。そして『富める者』が最初にくれば、かれらは最初から終わりまで占めることになるだろう」。

(長島伸一『ナイチンゲール』)

 

富裕層だけではなく、すべての人を診療する医療施設にプロフェッションである熟練看護婦を提供したとしても、その施設が採算を目的とするならば、結果的にその医療施設は富裕層だけの利用となってしまうだろうと指摘しているのです。

採算を目的とする施設で熟練看護師がいるのならば、富裕層がまず患者としてやってくる、そしてそのまま富裕層に占拠されるだろうというのです。

たとえばイギリスのエリート養成機関であるパブリックスクールは、本来は慈善的な意図で貧困家庭児を入学させるために設立されたものでした。ところが評判が高くなり、富裕層の子弟が入学するようになると、生徒・学生のほとんどが富裕層の子弟で占められるようになるのです。貧困層に特別な配慮をしないかぎりは、社会の優秀・優良な施設・機関は、富裕層だけが利用するものに変わるのです。

現在の日本社会も新自由主義ネオリベラリズムが政治経済の面で主流になり、貧富の格差が凄まじい勢いで進んでおり、急速にヴィクトリア朝的な階級社会へ移行している状態です。

現代においても、あるいは新自由主義が席巻する現代においてこそ、ナイチンゲールの警告に耳を傾ける必要があるのだといえるでしょう。

 

★ 政府の規制を緩和・撤廃して民間の自由な活力に任せ成長を促そうとする経済政策。緊縮財政や外資導入、国営企業の民営化、リストラのほか、公共料金の値上げや補助金カットなどを進めるため、貧困層の生活を直撃し国民の反発が強い。

 

 

【参考文献】

茨木保『ナイチンゲール伝:図説 看護覚え書とともに』(2014年、医学書院)

長島伸一『ナイチンゲール』(1993年、岩波ジュニア新書)

度会好一『ヴィクトリア朝の性と結婚』(1997年、中公新書

 

2023年5月3日 映画「恋するインターン 現場から以上です」(2016、韓国)

「恋するインターン 現場から以上です」(2016年、韓国)。仕事も恋愛もあり。だが、仕事がノッて行く時は仕事を選ぶ。そんな韓国の若い女芸能記者の奮闘記。
日本だとパワハラになる可能性が、この映画では「情熱」のあまりの発言。まだ人間の信頼関係が底に分厚く流れている。ぎりぎりセーフってとこかな。
人間の深いところでの信頼関係を失ってしまった日本って、ほんとうに「希望」がなくなっていることを気づかせる。
看護学生たちは、K-POP韓国映画、韓国アイドルが大好き。元気もらえるからかな。

(2919/05/03)

 

那覇は浮島だった!

那覇は浮島(離れ島)だった!若狭村は漆器などを作る職人の町、辻は遊郭、久米村は中国系の村。浮島は遊郭と中国系の占める割合が高い。離れ島は本来はお墓の島。聖域、あの世、すなわちグソー(後生)、異界だったのだ!

ほんの200年前までは浮島に異界の住人たちが猥雑で華やかなエネルギーを醸し出していた。

宗教的空間は市場になって発展する。モノの霊力を宗教の力でとりはらうことが必要だったから。沖縄戦がなかったら浮島はどう発展していったのだろうか。

地図は沖縄タイムスのタイムス住宅新聞(2022・4・8)より。

 

 

シマ社会の美

かつての文化人類学者の視点に疑問はあるものの、貴重な記録です。

 

(フクギの繁る集落 沖縄北部 1904年 鳥居龍造)

これら(自然に洗練された形)はすべて美しい。生活の必要からのギリギリのライン。つまりそれ以上でもなければ以下でもない必然の中で、繰りかえし繰りかえされ、浮かび出たものである。特定の作者、だれが創った、はない。島全体が、歴史が結晶して、形づくったのだ。(岡本太郎『沖縄文化論:忘れられた日本』)

 

 

「人体には直ちに影響はありません」?

「人体には直ちに影響はありません」ご存じのように放射性物質は身体に入ってから、いつ、どのような影響がでるのかわからないところが恐ろしいのです。つまり、問題は「長期的に影響がでる」ということであるにもかかわらず、これを言い換えて、「直ちに影響はない」とまったく逆の方向へと言い換えているのです。このようなものを私は「原子力安全欺瞞言語」と呼んでいますが、まさしく原発とは「東大話法」によって生み出された欺瞞の象徴であって、その歪みのゆえに起きたのが、福島第一原発の事故だったのではないでしょうか。つまり、原発とは「東大話法」によって生み出され、「東大話法」によって崩壊し、今度は「東大話法」によってその事実が誤魔化されようとしているのです。(安冨歩 『もう「東大話法」にはだまされない 「立場主義」エリートの欺瞞を見抜く 』

 

 

  名護市基本構想で主張された逆格差論

    名護市基本構想で主張された逆格差論

日本政府は復帰後の沖縄の開発として、「沖縄振興開発計画」を決定(1972年12月18日)します。その主張の基本的トーンは、沖縄は日本に比べて著しい格差があり、その格差を是正しなければならないというものでした。

〔沖縄は〕長年にわたる本土との隔絶により経済社会等各分野で本土との間に著しい格差を生ずるに至っている。

これら格差を早急に是正し、自立的発展を可能とする基礎条件を整備し、沖縄がわが国経済社会の中で望ましい位置を占めるようつとめることは、長年の沖縄県民の労苦と犠牲に報いる国の責務である。(内閣府沖縄総合事務局「第一次沖縄振興開発計画」より)  

復帰後の沖縄県には、日本と沖縄の格差是正を名目にして、国策による巨大開発が矢継ぎ早に展開されることになります。それらの巨大開発は沖縄の「自立的発展を可能とする基礎条件を整備」するという目的で行われましたが、その内容は自立的発展に沿うものとは言いがたいものでした。

振興開発のほとんどが公共工事で、高速道路が整備され、トンネルが掘られ、橋が架けられ、次々とモータリゼーション(車社会化)の整備が進んでいきます。そのようなモータリゼーションの整備は地域住民の生活の利便性を増すという面よりも、リゾート開発を容易にするという側面を持つものでした。それに反して、生活道路といわれる道路の整備は、復帰後50年経ってもまだ完了していないところが多数あります。

沖縄の鉄軌道の復活も果たされなかったものの一つです。戦前には3 路線 46.8kmの路線長を持つ軽便鉄道がありましたが、これが復活することはありませんでした。日本では高度経済成長期に国土の隅々にまで鉄道が敷かれ、鉄軌道による輸送を基に経済成長を果たしたのですが、鉄軌道復活の要望は「自立的発展を可能とする基礎条件を整備」に含まれることはありませんでした。

沖縄都市モノレールゆいレール)は1972年の「第一次沖縄振興開発計画」で導入が検討されていましたが、国は赤字路線になるなどと言ってなかなかゴーサインを出さず、31年後の2003年にやっと開業に漕ぎつけたものです。

鉄軌道の復活や都市モノレールの開業などは、「自立的発展を可能とする基礎条件」の整備にあたりますが、国はそのような自立経済をサポートするような整備には消極的であり、リゾート開発につながるモータリゼーションのための整備には、巨額の資金が惜しげもなく投ぜられるのだといえます。

海浜の埋め立ては矢継ぎ早に実施されました。珊瑚礁のリーフで囲われた沖縄の海浜は遠浅で、安価で埋め立てするには最適の土地だったのです。糸満市の西崎が埋め立てられ、豊見城市豊崎が埋め立てられ、金武湾、中城湾と次々と埋め立てられていき、沖縄の自然海岸は著しい速度で消滅していきます。

立派な道路や施設ができても、沖縄の産業が発展したとか、沖縄の住民生活が豊かになったという実感に乏しいものでした。見てくれは立派でも中身の伴っていない開発が多かったのです。

そのような国の格差是正論に異議を唱えたのが、名護市が『名護市総合計画・基本構想』(1973年6月策定。以下「基本構想」)で提示した逆格差論でした。

逆格差論は時代に先駆けて、「持続可能な社会」作りを50年近く前に提唱したものです。国連が、最初にsustainability =持続可能性という語を用いたのは、 1978 年とされます。今日使われる意味での用法は、1987 年に「環境と開発に関する世界委員会」の報告書で使われるようになってからのことです。つまり名護市の逆格差論は、持続可能性の議論が広がる 15 年も前に、独自でその思想を展開したものなのです。

基本構想で主張されたことは、大雑把にいうと、所得格差論に基づく開発は農漁業等を軽視した“工業の論理”であり“企業の論理” であるために、自立経済を確立するどころか沖縄の豊かさを逆に破壊する、というものでした。

県民の批判と生活要求の本質を認識しない沖縄開発論は、北部開発の起動力と称する「海洋博」においてすでに明らかな農漁業破壊の実態を見るまでもなく、自立経済の確立どころか、ついに沖縄を本土の“従属地”としてしか見ない本土流の所得格差論をのり超えることはできないのである。(中略)

工業によって物資やお金を増やさない限り、福祉や社会サービスを向上させることができないという考え方は、相変らず農漁業等を軽視した“工業の論理”であり“企業の論理”である。なぜなら、たとえば、立派な冷蔵庫は月賦で買ったが、その中に入れるおいしい果物は高くて買うことができない。デラックスな自動車は増えたが、交通事故は激増し子供たちは遊び場を失った。お金を払う遊ぶ施設は立派になったが、お金のいらない美しい野や山、川や海はなくなってしまったという現実がすでに明らかになっているからである。(基本構想第1章2「逆格差論の立場」)。

基本構想では、産業社会の行き過ぎを指摘し、健全な生態系に包まれて生きることを提唱します。そして農漁業を基盤にした地場産業の発展は、「人類の使命」であると謳いあげます。つまり経済の右肩上がりだけを求めてきた産業社会は曲がり角に来ており、次のステップに移らなければならないことを宣言しているのです。

農漁村があってこそはじめて都市の役割も正しく発揮されるものであることを認識しなければならない。この都市と農村の正しい関係を見ない開発論は、計画者の良心的努力とは裏腹に、相変らず農村、漁村を破壊する結果になることをはっきりと認識しなければならないだろう。

今、多くの農業、漁業(またはこれらが本来可能な)地域の将来にとって必要なことは、経済的格差だけを見ることではなく、それをふまえた上で、むしろ地域住民の生命や生活、文化を支えてきた美しい自然、豊かな生産のもつ、都市への逆・格差をはっきりと認識し、それを基本とした豊かな生活を、自立的に建設して行くことではないだろうか。その時はじめて、都市も息を吹き返すことになるであろう。

まさに、農村漁業は地場産業の正しい発展は、人類の使命と言うべきであろう。(前掲「逆格差論の立場」)

そして基地依存経済からの脱却を、日本の高度経済成長の後追いに求めるのではなく、地場産業の本格的育成に求めます。

あえていうならば、基地依存経済の脱却とは、あれかこれかといった他の“金もうけ”の手段をさがすことではなく、農林漁業や地場産業の本質的育成、振興という正当な“金もうけ”を達成することによってのみ本質的に可能となるのである。(基本構想第1章3「沖縄の自立経済」)

逆格差論で注目されたのは、字公民館を中心とするコミュニティづくりでした。その当時の沖縄では、字公民館は行政の補助金に頼るのではなく、住民たちが自力で建設したものがほとんどでした。このように自力で作られた字公民館にこそ、高い自治能力があると認めたのです。

名護市は行政が中央集権的にさまざまな施策を行う前に、まず字公民館が自立して文化・経済・政治活動を行うようにサポートすることを行政の柱に据えたのです。つまりツリー(樹木)型の行政ではなくリゾーム(根茎)型の行政の確立を目指したのです。

幸いにして、名護市においても市公民館を中心としたコミュニティ活動が盛んである。こうした歴史的蓄積をひとつの現実的根拠として、このしくみを考えていくべきであろう。現在字公民館は、ほとんどすべての字(集落)にあり、その数は50カ所をこえるであろう。施設としては集会室、部落事務室、厨房などを持ち、周囲には子供の遊び場の他に、保育所や共同売店などが併設されているものも多い。これらの公民館、保育所、共同売店などはいずれも、地区住民の自力建設を基本として作られたものであり、このことの持つ意味は、本土の公民館が、一種のおしつけとしての補助金によるものが多いことと比較した時、想像以上に重要なものである。(中略)しかし、この一種の自治活動としての公民館活動も、従来のままのものであっては、社会計画を考える上で充分なものではない。(基本構想第5章2「社会計画の方向」)

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名護市が1973 年に策定した第一次総合計画は、その基本構想が「内発的発展」を謳った「逆格差論」として、環境問題に関心を持つ人びとに強烈なメッセージを伝え、全国的に知られることとなりました。行政による基本計画としてはありえないほどの大胆な提言に満ちた思想的先駆性を持つ内容であったからです。

逆格差論に立つならば、豊かさとは経済指標によって測られるものではなく、豊かな自然に根差した経済発展(内発的発展)を目指すことです。「工業の論理」や「企業の論理」で進められる振興開発は、経済指標的には上位に来ることがあったとしても、それは豊かさとは別なものであり、逆に豊かな社会を破壊するものであると見るのが、逆格差論なのだといえます。

1973年に名護市が打ち出した逆格差論は、未完成なままに終焉したといえます。しかし農業を基盤に据えて地場産業を創り出すという名護市の取り組みから、絶滅寸前だった在来種黒豚アグーの復活は成功し、アグーをブランド化するのに成功しています。遠回りでもその方が「正当な“金もうけ”」として成功することができたのです。

戦争の危機がよそごとではなくなり、食糧自給の不安がささやかれるようになった現代の沖縄においてこそ、逆格差論は再び注目される必要があるのかもしれません。

江戸時代は離婚率は高かった!その理由は?

江戸時代の離婚率

驚くかもしれませんが、江戸時代の離婚率(人口千対)は2%とか3%などという低い水準の離婚率ではありませんでした。(2021年の日本の離婚率1.5)儒教的モラルの高い武士階級においてさえも、離婚率は10%を超えていたとされています。

江戸時代中期の武士階級の女性の離婚率の高さと再婚率の高さには、女性の持つ財産権の確保がありました。妻が嫁入りのときに持参した持参金は、離婚のさいには妻に返さなければならなかったのです。その財産があったので、離婚しても生活に困るという事態にはならなかったのです。

民衆層においても江戸時代の離婚率は、11%から35%とかなり高い比率を示しています。再婚率も武士階級を上回ります。

婚姻の期間についても現在の婚姻期間とは大幅に異なります。25年続く婚姻生活が全体の2~3%と少数例に属するものであり、多くは婚姻後1年から3年のうちに離婚したというのです。

このようなデータを見る限りにおいて、江戸時代は高離婚率社会であったとみることができます。

離婚率の急激な低下は何をあらわしているのか?

1898(明治31)年に制定された明治民法により、日本における家族意識が急速に変化します。明治民法第801条において「夫は妻の財産を管理す」とされ、夫婦の財産権は女性から奪われます。そして財産の相続も父系嫡男が優先されることとなります。このことにより日本において家父長制が本格的に成立するのです。それがどれほどの衝撃であったかは、下記のグラフをみれば一目瞭然です。

日本の離婚率の推移


このグラフは日本の離婚率の推移をあらわしたものですが、1897(明治30)年から1899(明治32)年にかけて離婚率が急激に低下したことがわかります。

それは2.87%から1.50%へという半減に近いような減少率です。

その後の離婚率は1999年に2%を超えるまでは、1%台で推移します。つまり明治民法の施行によって、離婚率は急激に低下し、日本は低離婚率社会へと移行するのです。

ところで、今日わが国固有の伝統とされていることの多くが、実は明治時代中期ころに作られたものといえる。女性が男性に著しく隷属させられるようになり、「家」意識や男尊女卑がホンネとして強制されたのもこのころからである。江戸時代はむしろ観念としての「家」や「孝」であったものが、民法によって「家」制度が規定され、また親を扶養する義務を跡継ぎに担わせて現実に「孝」を強制させたのである。「貞女(ていじょ)二夫(にふ)にまみえず」式の儒教的婦徳もまた日清・日露戦争をへて、しだいに実効性をもつようになった。(高木侃『三くだり半と縁切寺』)

三行半(みくだりはん)

江戸時代、夫から妻への離縁状の俗称。離縁する旨と、妻の再婚を許可する旨を書いたもの。転じて、離縁すること。江戸時代、夫から妻への離縁状の俗称。離縁する旨と、妻の再婚を許可する旨を書いたもの。転じて、離縁すること。

 

 

三くだり半

 

明治民法は、女性の社会的地位を奪うこととなりました。女性は男性に従属しなければならない存在となったのです。女性の男性への従属が決定的となったとき、儒教のモラルが内面化されます。「貞女(ていじょ)二夫(にふ)にまみえず」とは、貞女は夫が死んだあとも、再婚することはないということです。

離婚率の急激な低下が何をあらわしているかというと、離婚する自由が奪われたということです。その離婚する自由とは経済的自立性に支えられていました。経済的自立性が法的に奪われたとき、女性は離婚する自由を失い、夫に従属せざるを得なくなったということです。

これまで支配的であった言説では、近代以前の日本は家父長の権限が強い社会であり、女性は家父長に従属しなければならない存在であったとされてきましたが、近代になって女性は男性に従属されていったのです。

商品流通の発達と永続する家意識

江戸時代後期に日本では商品流通が発達し、それにともない各地に特産品がつくられるようになっていきます。農業や漁業などの第一次産業に従事する民衆層が、副産物を自分たちで加工して商品化したのです。

このようにして生み出された特産品は、換金商品でしたので、農家や漁民たちに財産を形成させることになります。その財産が家産となります。

また特産品を生み出すノウハウと市場とのつながりは、家ごとに代々継承されることになり、家業を生み出します。その家業家産の継承が、永続する家意識を生み出します。

日本の伝統的家族は男性中心主義というのは誤解である

女性たちが特産品生産の主力となりましたので、特産品生産にともなって発生した永続する家意識は、必ずしも男性中心的な家意識ではなかったのです。

たとえば、上州(群馬県)名物「かかあ天下と空っ風」という言葉がありますが、群馬県は江戸時代後期に養蚕が盛んになり、その養蚕業を担ったのが女性たちであり、家計の主導権を握っていたのです。そのため女性の発言力が強く「かかあ天下」と称されたのです。

日本民族学の創始者である柳田國男は、日本の伝統的な家族が男性中心主義ではなかったことを述べています。

日本の婚姻において、女性が法外に素直であり忍従であったということは、一般の印象かと思われるが誤解である。これは武人という一部の階級に、それも近世に入ってから、やや強調せられていた慣行の名残であって、これを全国の生活を代表するもののごとく、考えたりしたことがそもそものまちがいだった。(柳田國男「婚姻の話」)

 

 

柳田は、日本の伝統的家族が男性中心主義であるという見方は、「誤解である」と言っているのです。なぜ誤解されていたのかというと、日本の永続する家意識がタテマエ上は男性中心主義であったということによるものでしょう。

たとえば養蚕業においては女性が家業の中心であったにもかかわらず、公的な表に出る場では男性の名前で出さざるを得なかったという事情があります。そのことは養蚕業のみでなくあらゆる産業分野にわたったものと推測することができます。そこから「誤解」は生じたのだと思われます。

実際には女性たちによって事業が営まれているにもかかわらず、公的な表に出る場合は男性名で出されたのです。記録上は男性名しか残りませんので、女性が産業の中心的担い手であり、家庭内においても発言力が強かったという歴史は、「視えないもの」になってしまうのです。

(歌川貞孝「養蚕の図」)

養蚕の図 | 秋華洞スタッフブログ

経営体としての家意識

このように江戸時代後期に、どちらかというと女性の高い生産力を機軸としながら家業家産が成立し、永続する家意識が民衆化します。

この永続する家意識は、名目上は男性を当主とします。父系嫡男継承をタテマエとするのですが、家業家産に基づく家意識ですので、基本にあるのは経営体としての家意識ということになります。

経営体ですので、当主は経営能力がなければなりません。ですから当主に経営能力が認められない場合には、当主を若隠居させて次の当主を立てるか、あるいは血縁関係はないが経営能力のあるものを娘婿に迎えて家業を継がせるということも盛んに行われます。

たとえば、大相撲のお相撲部屋では、息子ではなく娘が喜ばれたということです。なぜなら男の子は強い力士に育つかどうかわからないのですが、娘ならば婿を、優秀な弟子の中から部屋の後継者として選ぶことができたからです。

ここらへんが沖縄の位牌継承慣行における家意識と異なる点です。沖縄の位牌継承慣行も永続する家意識ですが、当主の経営能力が問われることはあまりありません。ただ父系嫡男継承の生物学的な血縁関係が問われるだけです。